聖書律法が世界を支配することはすでに予定されている

 

ヒューマニズムがまだサタンの正体を十全にはあらわしていないころに教育を受けた人々の欠点は、ヴァン・ティルの指摘である「この世には中立は存在しない」が明確には分かっていないということです。

 

福音に関して伝道をよくやり、牧会もきちんとやっている牧師たちが、「文化は相対的である。どの文化が高くて、どの文化が低いなどということを決定できない。これは文化人類学が言っていることです。」などと平気で言うのです。

 

首狩り族の文化と、キリスト教文化がどちらが高いかは歴然としているのです。

 

人を平気で殺して、首をかる文化、病気を呪術で治そうとする文化と、近代医療が発達した文化との差があるのは明らかです。文化とは、神の法からどれだけ離れているかによってレベルの差があります。

 

しかし、これらの教師たちは、大学で勉強してきたことをそのままうのみにして、説教の中に取り入れて、信徒を文化相対主義者に変えていきます。そのため、福音と矛盾する教えが、教会の中にどんどん入ってくるのです。

 

教会は、日本の文化を聖書に基づいて変える使命が与えられているのです。それが、「世界のすべての国民を弟子とせよ。私が命じたすべてのことを守るように教えよ。」とのイエスの命令の意味なのです。

 

しかし、実情は、教会の運営は、異教徒である日本人の常識にしたがって行われています。長老で神学を修めた人間はほとんどいなく、実質的に、長老になる人々は社会的にしっかりした紳士であるかどうかが基準になることが多いため、社会における常識が教会の中にどんどんと入ってくる(社会の常識のすべてが悪いとは思いませんが、それは、聖書のフィルターを通さねばならない)。長老クラスの人々は、聖書の知識においても、信仰においても、霊的な考え方においても、高度な訓練を受けていなければならないのですが、そのような人はほとんどいない。

 

信仰と文化は密接に関連しているということを理解しないため、アメリカにおいても世界においても、キリスト教文化が衰退し、どんどん世俗の価値観が勝利を収めて、ついに、欧米においても、キリスト教文化はほとんど滅亡しかかっているのです。

 

だから、今日、文化全般について、鋭い批判力を持った人々が神学校の教師となって、神学の中からヒューマニズムを徹底して排除する「清め」が行われる必要があるのです。

 

文化についてのきちんとした聖書的理解がないところに、フラー神学校の文脈化主義(contextualizationalism)が入ってきたため、教会は安易に日本の文化を受け入れ、過剰適応するようになった。

 

教会は「世の光」として、文化の先頭を切らねばならないのに、世俗文化が「教会の光」となっている。

 

だから、教会は、まず、神が求めておられる文化とは何かについて真剣に考えねばならない。

 

そのためには、生活全般について御心を記している旧約聖書の律法をもう一度学びなおす必要がある。「伝道だけでよいのです。世界の人々に伝道すれば、キリストが再臨されます。」というのでは、このように文化を変えるという目標が生まれない。そのため、教会がどんどん世俗文化に汚染されて、再臨が来る前に教会がほとんどこの世界に対して役立たずとなって、人々に踏みつけられるだけになりかねない(すでにこのような状態になっていることに教師たちも気づいていないというのは本当に危機的な状況だと思います)。

 

ラッシュドゥーニーの聖書律法綱要(http://www.path.ne.jp/~millnm/institutes.html)は、この意味において極めて重要な書物であり、神的な文化建設の土台としての聖書律法について解説を加えている。

 

将来、聖書律法研究は進んで、世界の文化をどのように聖書律法に従って作りかえるか、各国のクリスチャンは真剣に取り組むようになるでしょう。神は、それを望んでおられ、永遠の昔に、このような研究者の登場を予定されています。恐らく彼らは、ホームスクーリングやクリスチャンスクールで育てられた人々の中から生まれるでしょう。

 

ラッシュドゥーニーが言うように、「聖書律法は世界を支配する運命」なのです。

 

 

 

 




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