まったく新しい群れを作る以外にはない

 

(一連の掲示は個人攻撃ととらえないでください。個人的攻撃のために時間を使うほど裕福ではないですから。あくまでも、日本のキリスト教の繁栄のために問題提起をしていると御考えください。)

人を利用しようとしか考えない牧師やクリスチャンが多い。
これは、キリスト教から魅力を奪っている。
キリスト教の魅力は、本来、他者のために自分を犠牲にするところにある。
しかし、今日のキリスト教徒は、自分を犠牲にする人を目ざとく見つけて、「何とかこの人から利益を得られないだろうか」としか考えていないように見える。

本来ならば、同胞のクリスチャンに対して、利益を与えるように努めるのが普通だろうが、今日のクリスチャンは逆である。「クリスチャンなら、安く使える」と考える。

1980年代後半にゴルバチョフ政権の時に、ソ連に聖書を持っていく活動に参加したことがある。ソ連からクリスチャンが来ると、講演のために、朝から晩まで一日5〜6箇所を回るハードスケジュールである。一回の講演で1時間半のメッセージを通訳するのだが、講演者も聴衆も、通訳したりスピーカーが話している間は、頭を休めることができるが、私は、スピーカーが話しているときも、自分が通訳しているときも一時も気を休めることができない。終わると精神と身体はぐったりして何もする気になれないくらいになる。

こういったサービスに対して払われる通訳料は通常は一日5万円である。しかし、これは神様のためだからというので、一日5千円に満たない金額で引き受けていた。私自身もソ連伝道に重荷を負っていたからである。しかし、これらの依頼者である人々(私と異なる教会員)は、感謝の意識がきわめて低かった。やって当然だろう、というような感覚である。これは、ノンクリスチャンよりも悪い。ノンクリスチャンでも、御世話になった人は忘れない。再び会ったら、「あの時はどうも」と普通言うものだ。極東地方に宣教の旅に出かけるために、牧会していた教会を留守にして教会員に迷惑をかけてまで奉仕しても、見かえりは何もない。挨拶もない。地方の教会のメンバーから翻訳を頼まれたり、リスト作成を頼まれたり、東京の大使館に代理でサインをもらいに行っても、感謝状も年賀状の一枚もない。

そして、こういったクリスチャンほど、「人から見かえりを求めてはならない」という。もちろん、そうだ。人から見かえりを求めてはならない、というのは事実だ。「右の手がしたことを左の手に知らせるな」とイエスは言われた。

しかし、それは、あくまでも「自分への戒め」であって、人に対して言うべきものではない。人を愛するということは、自分の利益のために人に忍耐を強いることではないはずだ。

クリスチャンを利用しようとする人々、クリスチャンに負担をかけても平気な人は、実質的に信仰を捨てている。

この根底に愛がかけているのだ。本当の聖霊は、クリスチャンを心の底から愛している。だから、クリスチャンには特別に有利な条件を出してあげよう、豊かになってもらおうと考えるはずだ。

しかし、今日のクリスチャンは逆である。自分の財布からはビタ一文でも出すことを渋り、兄弟が相談してきても一秒たりとも余分な時間は使いたくないと考える。

なぜこのような無律法な態度が出てくるのか。

それは、彼らの内に聖霊がないからである。つまり、彼らは生まれ変わっていない。

以前と比べても最近のクリスチャンの質の悪化は目立っている。

ということは、次第に教会からは、聖霊を受けている本物のクリスチャンが去り、ノンクリスチャンだけが残ったということなのだろう。これできれいに説明がつく。

聖霊を受けていない人々にクリスチャンを愛しなさいと述べるのも酷な話である。だから、聖霊を受けていない人々には無駄な期待はしないようにしようと思う。

つまり、まったく新しい集団を作る以外にはないということだ。聖霊を受けて生きた信仰のある人々が中心となるような集団を作り、純粋に聖書だけに基づいて教会形成をする以外には方法はないのだ。

 

 

02/05/01

 

 

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