血肉に対する闘い

 

<ご質問>

>地を従えよ、との命令は、「地において審判者として働け」ということな

>

というのは聖書のどういった解釈方法によって得られるものなのでしょう

か?

 

<お答え>

アダムへの命令「地を従えよ」(創世記128)の「従える」にあたるへブル語kabashは、「足台とする」「踏み付ける」という意味です。この単語の派生語kebeshは「足台」という意味で、ソロモン王の玉座の「足休め」を指すのに使われています(第2歴代918)。

すなわち、「地を従えよ」とは、字義的に訳せば、「地を足台とせよ」という意味なのです。

これは、被造世界を征服し、搾取し、動物を虐待せよ、という意味ではありません。

というのも、神も、「地は私の足台である」と言われているからです。

「主はこう仰せられる。『…地はわたしの足台。』」(イザヤ661

「地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ535

神が、地を搾取したり虐待するわけではありませんから(律法には自然保護の規定が数多くある。例:安息年、むやみに木を伐採することの禁止など)、当然、「地を足台とせよ」という命令が被造物の搾取や虐待を意味していると結論できません。

では、「地を足台とせよ」とはどのような意味があるのでしょうか。

それは、人間が被造物の王として創造されたことを意味しているのです。人間も神と同じように、「地」を足台としています。それゆえ、被造世界に対して神と同じように王である、というのです。

もちろん、これは、人間が神と等しい権威を持っているということを意味しているわけではありません。人間は、あくまでも神のしもべですから、厳密に言えば、人間は神の副官なのです。

さて、聖書において、王の務めは、国を治めることにありますが、この「治める」に当たるへブル語shapatには、「裁く」という意味があります。古代世界において三権は分立しておらず、王には裁判官の務めもありました。

ソロモン王が、二人の女のどちらに子供が属するかを裁いた話は有名です(第1列王3:16-28)。

キリストは、再臨され、王として、すべての人を裁きます。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、<王>は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」(マタイ2531-34

人間は、被造物の王として創造されました。人間は、善と悪を区別し、地を正しく裁き、義を地上に打ちたて、正しく世界を治めなければならないということが、創世記128の「地を従えよ」という命令から分かります。

 

<ご質問>

>法律は、一種の戦争です。法律は、悪を犯してそれを悔い改めない人々に

>対して宣戦布告します。

この原則は聖書のどこの部分から得られるものなのでしょうか?

 

<お答え>

出エジプト321から3235までの記事で、モーセが主と会見するために山に登っている間に、待ちくたびれたイスラエルの民が、金の子牛の像を作ってそれを伏し拝み、どんちゃん騒ぎをしました。これは、明らかに出エジプト20章で命令された「偶像礼拝の禁止」命令の違反です。

この罪の刑罰はすぐに下りました。神は、罪を犯した民を裁けと言われ、神の命令にしたがって、レビ族が、剣を持って民を殺しました。

「そこで、モーセは彼らに言った。『イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。』 レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。」(28-29

法律は、違反する者に対して宣戦を布告するのです。

もし、違反者に対して宣戦布告しない法律があるとすれば、それは「ざる法」です。もちろん、「ざる法」はあってもなくてもよいものですから、実際的に見て、法とは呼べません。

 

<ご質問>

テロリストはサタンなのでしょうか?それともサタンの誘惑によってテロ

行為に及んだのでしょうか?

 

<お答え>

人間が罪を犯す場合に、サタンに誘惑されて罪を犯す場合と、そうではなく自分の罪深い性質のゆえに罪を犯す場合とがあります。

罪を犯したことを何でもサタンのせいにすることはできません。サタンが誘惑しなくても、私たちは自分の欲にかられて罪を犯す者です。

テロリストは、サタンではありません。人間は、サタンに影響をされた者であって、サタンそのものではありません。

サタンは霊的な存在であり、人間とは別の存在です。

テロなどの恐ろしい罪を人間が犯すようになるまでには、何段階もの罪のステップがあります。

最初から殺人などの恐ろしい罪を犯すことはまれです。

最初は、ウソをつくとか、おつりをごまかすとか、親に八当たりするとかの程度でしょうが、罪は常習化する性質がありますから、人間はそのままにしておくと、どんどんと罪を深めていきます。

そして、サタンは、そのように軽微な罪を犯す人々を将来の大罪人候補者として狙っています。

サタンは、自分の意志を遂げるために彼に次々と成功と快楽を与えて手なずけようとします。

罪を犯しても物事がうまく回っていくので、人はますます傲慢になって次第に大きな罪に手を染めるようになります。

サタンは、同じような罪を楽しんでいる友人を彼のもとに送ってきて励まします。

また、彼は悪い思いやインスピレーションを脳裏に与えてきます。最初は小さな罪の思いでしょうが、それを受け入れる人には次第に過激な思いを与えるようになります。

貿易センタービルなどに自爆テロなどを行う人々は、そのような罪の思いやインスピレーションに慣らされて、次第に過激な思想を植えつけられていった人々でしょう。

 

<ご質問>

また、サタンに誘惑された者、もしくはサタンの働きを肉(戦争行為)によって裁くことは、

肉ではなく霊によってサタンと戦えと戒めた神の言葉に反することにならないのでしょうか?

 

<お答え>

たしかに私たちの闘いは、霊に対する闘いです。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

(エペソ612

打倒すべき本質的存在は、人間ではなく、サタンです。

しかし、同時に、私たちは、地を治めることを命じられていますので(創世記128)、「霊だけに関わればよい」と言うことはできません。

「血肉の闘いなのだから、血肉に関わることすべてから身を引こう」ということはできません。エペソでパウロが述べたのは、「問題の本質は血肉に対する闘いではなく、霊的闘いなのだ。」ということを言おうとしたのです。我々は、霊的闘いに焦点をおきますが、霊的闘いの具体的現れである、犯罪や戦争などについては、それを肉において処理する必要があります。

国家は、犯罪者を罰し、侵略を防止する責任があります(ローマ13章)。家の父親は、家族を治めなければなりません。

霊的な闘いだから、というので、ただ祈ってばかりいて、何一つ子供を具体的に指導したり、叱ることができない父親は無能です。

教会において反逆の霊にとりつかれた人が、牧師や長老などの悪口を教会員にいいふれまわったり、姦淫の霊にとりつかれた人が放縦の罪を犯しているのを、ただ牧師や長老は祈って傍観していることしかできない、ということにはなりません。

くどいですが、霊に対する闘いということは、「我々が肉にかかわってはならない」ということを意味しているのではなく、具体的な現場では、当然、肉において、悪霊の働きと闘うことになるのです。

私たちは、霊に影響されて罪を犯すことがありますが、しかし、「これは霊が悪いのです」と言って自分の責任については知らん顔はできないのです。犯した行為そのものは、あくまでも自分の行為なので、それについて私たちに責任があります。

「私たちが悪いのではありません。このヘビが…」と言ったアダムに対して、神は「おまえの刑罰はこうだ…」と言われました。問題のきっかけは、サタンの誘惑にありましたが、罪の行為そのものを行ったのは人間なので、人間に責任があるのです。

それでは、今度は、「問題は人間が起こすのであるから、特定の人間や制度を処理すれば解決する」と考えべきか、というとそうではありません。

共産主義者は、「問題は資本家にある。資本家を抹殺すれば地上に楽園が来る」と言いました。

しかし、資本家を粛清しても、楽園は来ませんでした。なぜならば、労働者階級が政権を取ると、彼らが新たな問題となったからです。共産党員は新たな社会の貴族となり、富を独占するようになりました。搾取の構造は、変化しなかったのです。

これで、人間の問題は、究極において、罪にあって、階級や特定の人間にあるのではない、ということが明らかになったのです。

 

問題とその対処は次のようになります。

 

(1)人間の堕落した性質 ―― 新生と聖化により徐々に原初の状態に回復
(2)サタンの誘惑 ―― 祈り
(3)人間の具体的行為(犯罪など) ―― 統治者などによる裁き

 

現代のヒューマニズム世界は、この3番目しか問題にしていません。

クリスチャンは、3番目の問題の根源は、1と2番目にあると知っていますので、問題を総合的に扱うことができます。

 

<まとめ>

人間は、本性において堕落していますので、サタンが誘惑しなくても、罪を犯します。しかし、サタンは、この罪の性質を利用して自分の意志を遂げようと狙っており、ひとたびサタンの罠にはまると、人はどんどんと大きな罪を犯していき、ついに犯罪など、諸制度(家庭や国家、職場の上司など)が取り扱う必要がある悪を行うようになります。

ヒューマニズムは、霊の存在や、堕落の存在を認めないので、「肉」を変えればよいと考えます。つまり、法律を変えたり、犯罪者を罰したり、制度面で改革すれば解決すると考えますが、実際は、問題は解決しないどころか大きくなりつつあります。

クリスチャンは、問題の根源は、(1)人間の罪の性質と(2)サタンの誘惑にあると分かっていますので、(3)だけの処理でいいとは考えません。(1)については、伝道と教育により、国民を弟子化していく必要があると考えます。人間はまずキリストにあって生まれ変わり、罪から義へと性質そのものから変化しなければなりません。(2)については、熱心に祈りを積み、サタンの働きを抑え込み、かえって神の祝福と力が注がれるようにします。(3)については、具体的に現われた罪を厳正に取り扱うために、聖書の規定に基づいて、法律を作ったり、裁判、刑罰、政治、教育、しつけなどを行います。

 

02/02/03

 

 

ホーム




ツイート