肉体関係の聖書的な意味

 

広末涼子が、新しい恋人とホテルで連泊したと新聞の中吊り広告に書いてあった。

昔アイドルは、恋愛することを厳禁されていたものだったが、現在では違うようである。

こういった、結婚という制度がほとんど有名無実化してくると、実に寂しいものを感じるのだが、いかがだろうか。

つき合うとすぐに肉体関係を持つ。

節度も節操もなにもない。ただ欲望をそのまま発散することを認めてしまう世の中ってのは寂しいものだ。

アイドルが夢を売れなくなったら、一体何を売れるというのか。歌がうまいわけでもないし、演技がぴか一でもない。

松田聖子なんかのように、悪女で売っているわけでもないから、単なる現代ッ子の甘えにしか見えない。

肉体関係を持つことは、実質的に結婚を意味している。

だから、さらに別の人間と肉体関係を持つならば、それは姦淫になる。

聖書では、最初の肉体関係を、二番目の肉体関係と比較すれば、大きな罪とはしていない。

もし、男女が肉体関係を持ったら、男子は相手の親に花嫁料を払って、彼女を受け入れなければならない。離縁することはできない(相手の両親がそれを結婚を認めなければ、彼は彼女と別れなければならない。)。

なぜならば、肉体関係は、実質的に結婚を意味しているからだ。

しかし、もし、肉体関係をさらに異なる人と結べば、それは、結婚関係があるにもかかわらず、別の人と関係を持ったことを意味するので、契約違反――姦淫――になるのだ。

だから、いかに未婚の男女であっても、次次と新しい恋人と肉体関係を持てば、姦淫罪が適用される。

もちろん、姦淫罪は処刑に値する重罪である。

だから、次々と相手を変える男女は、肉体的、精神的な病に陥る危険性が高い。人間が裁かなくても、神は様々な形で、そのような人々に呪いを下される。

しかし、今日の社会でも両親でも教会でもこのような厳粛な規則を教えていない。

殺人を犯すわけではないのだから…、と姦淫罪を軽く見ている。

契約に入るということは、契約に伴なう刑罰を避けられないということを意味している。だから、(未婚者同士が肉体関係を持ったという意味も含めて)結婚関係に入った男女には、その関係を維持する責任がある。そして、その契約の中に入った男女は、他の人と関係を持つことは絶対にできない。もしそれをやってしまえば、相応の刑罰が待っている。

結婚関係を破壊する罪は極めて重い罪なので、売春婦と関係を持つことは、人を死に至らしめることはないが、人妻と関係を持つことは人間を死に至らしめるという。

「売春婦は1つのパンで買えるが、人妻は尊い生命をあさる」とあるように。

クリスチャンが姦淫を犯した場合、刑罰は何倍にも重くなる。

責任が大きいからである。祝福が大きいだけ、刑罰も大きくなる。

アウグスチヌスは、クリスチャンになる前に同棲をして子どもまでいたが、クリスチャンになった後は一切女性を近づけなかった。それは、「クリスチャンになった後の罪は極めて重くなる」からだ。

今日の教会の牧師は、ディスペンセーショナリズムの「律法無用論」をかざして、「すべてを行ってもよい」と言っており、神の契約的取り扱いについて教えない。しっかりとした教育が行われていないので、信徒たちはサタンの攻撃に対して無防備である。「あれは旧約聖書のことだから関係がないのだ」と言って。

しかし、現実はまったく異なる。刑罰は、本人が何を信じているかに関係なく下るからだ。律法を教えない今日の教会は、それゆえ、悪い。

我々は、全身全霊を尽くして罪から離れなければならない。教会はそのように信徒にも世の人にも教えなければならない。

 

01/05/20

 

 

 




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