信仰に因果律は適用できない?

 

 本を買ってきてPerl言語を勉強しました。簡単なものならプログラムを書けるようになりました。コンピュータ言語をかじってみて面白いと思ったのは、プログラムの世界は、徹底して因果律に支配されているということです。

 人間の言語なら、ファジーな部分がありますから、少し間違えても相手が理解してくれるということがありますが、コンピュータの場合、絶対に反応してくれません。定義されていない変数をいくら呼び出しても結果は現われません。lと1を間違えてタイプしても人間の言語なら読み手が補修してくれますが、コンピュータは別のものと受け取ってしまいます。

 

 コンピュータ言語を詳しくやればコンピュータにもいろんな面があることがわかるのかもしれませんが、初歩段階の私には、コンピュータの世界は、完全な因果律に支配されていると見えます。

 さて、「宗教や倫理の世界にまで因果律を適用できるか」という点において、現代の人々、及び、大多数のキリスト教はカント主義者です。

 「善悪に報いがあるなんてウソだ。」「信仰は頭じゃない。経験だ。」「信仰を難しく考えるな。」「聖書を勉強すると不信仰になる」「律法は今日無効なので、律法違反は罰せられず、律法遵守に報いはない。」などという「神秘主義」が教会の中に入っているのです。

 カントは、理論的思考や理論的論考は、現象の世界以外の世界(物自体の世界)には適用できないといいました。

 現象の世界については、例えば科学においては厳密な因果律を適用できるが、宗教の世界にはそのようなものを適用してはならない、と。

 この考え方は、バルト主義をはじめほとんどのキリスト教にも影響を与え、とくにディスペンセーショナリズムでは、新約以降、歴史内において倫理的因果律を適用することは間違いである、と言います。

 もしこのようなことが言えるならば、「歴史内において神は無能である。」ということになります。

 つまり、「善を行う者も、悪を行う者も、その生涯において報いを受けることはない。報いはキリストの再臨の後または死後においてのみある。」というならば、歴史の中においては、神は善を見ても悪を見てもただ黙っているだけで、けっして報いを与えることはない、ということになり、神は歴史の主権者ではないということになるのです。

 これは、明らかにマルキオン主義に匹敵する異端の教えです。

 聖書は、一貫して「善にも悪にも歴史内において報いがある。」と述べています。

 「私の為に地上の富を捨てるものは永遠の生命を受け、この世においてその百倍を受けないものはいない。」とイエスは言われました。

 この歴史内においても、倫理的な因果律は働いています。

 悪行を重ねている人間にはそれ相応の報いが「生涯の間にも」あります。

 善を行う人間にもそれ相応の報いが「生涯の間にも」あります。

 旧約聖書の歴代誌、列王記の、イスラエル及びユダ王国の王たちの言行は、「神は人間を律法遵守という基準で取り扱われる。」ということの実例であり、それは、新約時代にも適用される原理なのです。

 ディスペンセーショナリズムは、旧約聖書のイスラエル民族の時代は律法の時代であるから律法に従った取扱いがあったが、新約時代は異なる原理が働く時代であるから律法は無効であるといいます。

 このような「不変の神」を前提としない教えを説く擬似キリスト教が今日の福音派において優勢を占めているということはまことにゆゆしきことだと思います。

 

 

 

 

 




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