子供たちはドミニオン(神的支配)の担い手である

ブライアン・M・アブシャイア師

 

ドミニオンと大宣教命令

 

 神が人間を創造されたのは、被造物を支配し、神の御国を拡大するためでした。人間は、神の栄光を増し加えるために被造物を支配し、管理する神の権力代行者として立てられました(創世記1・28)。エデンの園は、その手始めとして神が築かれたモデルケースでした。神は、人間がそれを管理し、世話をするように彼に託されました。[もしアダムが堕落していなければ、]家族が成長するにつれて、彼らは園の外に出て、その他の地域をエデンのように美しく、調和のとれた場所に変えるために働いたことでしょう。アダムは、罪を犯した時ですら、支配の拡大を目指していたと言えます。間違った方法によってではありましたが、彼は支配することを望んでいたのでした。本来、神は、アダムが成長する過程で、彼が善悪を知るようになることを望んでおられました。もちろん、それは、勤勉に働き、まじめに神に仕えることによってでした。アダムが真摯に働き、神の御前において、自身の誠実さを証明することができれば、神は、彼に善悪の知識を与えようと望んでおられたのです。しかし、アダムは神に仕えることを望まず、神の権威に逆らい、自分のやり方で支配することを望みました。それゆえ、彼の上に裁きが下りました。

 アダムとエバは呪いを被りましたが、「被造物支配の命令」は取り消されたわけではありませんでした。呪いは、単にその命令を困難にしただけでした。土地は依然として耕すための場所として残されていましたが、呪われた結果、イバラやアザミが生じるようになり、この仕事は非常に困難なものになりました。女には子を産むという仕事が与えられていましたが、呪いの結果、出産には非常な苦痛が伴なうことになりました。神は、洪水の後、ノアにまったく同じ命令をお与えになりました(創世記9・7)。何世代も前にアダムに与えられたのとまったく同じ命令がノアにも与えられたのです。人間は、支配のために創造されたのです。

 

マタイ28章19−20節は、この「被造物支配の命令」の再公布でした。「生めよ。増えよ。地を満たせ。」との命令を実現するための手段には、新たに「伝道」が加えられました。しかし、その目的は同じです。御言葉の宣教を通じて、世界のすべての国民は、キリストに服従するようになります。(この極めて重要な個所がひどく誤解されているという現状に大きな悲しみを覚えます。大宣教命令は、「民族」を弟子とすることであって、個人を弟子とすることを命じたものではありません。)諸々の民族がキリストへの信仰に立ちかえり、あらゆる事柄においてキリストに服従するように訓練される時に、キリストの御支配は、全世界に広がります。

 

支配は選択の余地のない事実である

 

支配は、人間の本質に根ざすものであり、それゆえ、支配から逃れることは絶対にできません。問題は、支配するかしないかにあるのではなく、支配の理由や手段は何かという点にあります。もしクリスチャンが、キリスト・イエスの命令にしたがって、生活のあらゆる領域を支配することを望まず、ただ宗教的なゲットーに閉じこもるならば、ノンクリスチャンが我々の代わりにあらゆる領域を支配するようになります。人間の歴史とは、「ノンクリスチャンが、自分の方法によって『被造物支配の命令』を実行しようとした過程」と定義することができます。戦争、征服、政治的・経済的・社会的専制とは、ノンクリスチャンが他の人々を非合法的に支配しようとした試みなのです。罪は常に死をもたらすものなので、信仰に基づかない支配は、ただ悲劇を招来する以外にはありません(申命記28・1)。クリスチャンが信仰に基づく支配に失敗すると、そこには真空の領域が生まれます。すると、ただちにノンクリスチャンがやってきて、そこに邪悪な支配を始めるようになります。けっして誤解してはならないことがあります。それは、「不信仰な人々は、けっして、自由と繁栄が共存する、安全な社会を建設できない」ということです。不信仰な人々の支配は、一般の人々から、富や家族や自由を奪い去ります(ローマ1・20)。

 

多くのクリスチャンは、「支配」という言葉を恐れます。というのも、彼らはヒューマニズムにすっかり影響され、この言葉を正しく理解できなくなっているからです。不信仰な人々にとって、「支配dominion」とは「専制的支配domination」を意味します。つまり、自分の意志を一方的に(=トップダウン式に)他者に押しつけることです。そのため、多くのクリスチャンは、「支配することは、政治権力や抑圧的な支配を獲得するために暴力革命を起こすことである」と考えているのです。支配を革命と混同しているため、クリスチャンは、あらゆる種類の支配を拒否するようになり、個人主義や主観主義の世界に埋没しています。そのため、我々の周りの世界は、文字通り地獄に変わりつつあるのです。

 神的支配は、神的な方法によって達成されます。我々は、暴力や革命の手段にうったえません。なぜならば、革命は福音に真っ向から敵対するからです。アダムは、最初の革命家でした。彼は、神の法に違反しました。禁断の木の実を食べるということは、すなわち、誠実な奉仕による支配を避け、革命によって知識や権力や支配を奪取することを意味していました。クリスチャンの支配は、聖書の真理に基づくものでなければなりません。これは絶対の条件です。マルコ10章45節は、「仕える者が権力を獲得する」ということを教えています。支配できることを証明すれば、クリスチャンには支配が「与えられ」ます。小さな事柄に忠実であれば、我々は支配を「獲得し」ます。そのとき、神はさらに大きな事柄をお任せになるのです(マタイ25・21)。

 

支配とクリスチャンの家庭

 

性格の改造は、クリスチャンの家庭から始まります。ラッシュドゥーニーが言うように、家庭は、子供にとってはじめての学校であり、教会であり、国家なのです。後に大人になって社会や政治や経済の分野において活躍するために必要な基礎的な技術は、家族の中において学ぶのです。家庭の中において、我々は勤勉、しつけ、勤労、責任、道徳、品性を学びます。聖書は、「もし家庭を治めることができなければ、神の家族を治めることはできない。」(第1テモテ5・5)と述べています。教会を治めることができなければ、国家を治めることはできません。それゆえ、キリスト教文明の真の回復のためには、まず、自分の家庭を治めることを学ばねばならないのです。家庭を忠実に治めることができることを証明した後に、はじめて、神は、我々にさらに大きな社会的責任を与えてくださると期待できます。

 民族的な変革へのカギは、「被造物支配の命令」を実現するための聖書的方法にあります。我々は、「実り豊かな者になり、繁栄し、全地に増え広がり、全地を支配する」ことができるのです。この順番に注意してください。すなわち、我々が実り豊かな者になり、増え広がる時に、我々は支配するのです。増え広がるには、ただ生物学的な繁殖だけではなく、伝道による拡大をも視野の中に入れる必要がありますが、しかし、この命令の中心はあくまでも、「神は、我々の契約の子孫を祝福してくださる。」という神御自身の約束にあります(使徒2・38−39)。クリスチャンが、「被造物支配の命令」を真摯に受け取り、結婚の祝福を味わう時に、神は我々に子供――多くの子供たち、契約の子孫――を与えてくださるのです。そして、これらの子供たちが、信仰的な家庭においてきちんとしつけられ、職能を磨き、他のクリスチャン家庭の子弟と結婚し、忠実に主に仕えるなら、彼らも多くの子供に恵まれるでしょう。世代が経るごとに、クリスチャンの人口は複利計算で増えていきます。クリスチャンの家庭が非常に多くの子宝に恵まれ、その子孫がさらに多くの子孫を生むならば、やがて全地がクリスチャンで満ちることになります。

 

神は、アブラハムに、「あなたは多くの国民の父となる」という偉大な約束をお与えになりました(創世記15・5)。一人の人を通じて、神は、ほんの数世代で強大な民族となる家族を生み出されました。イエスの来臨により、多くの民族はアブラハムの家族に加えられ、彼らは全世界に広がりました。世代を経過するごとに、神は御自身の民を増やしておられます。他方、ノンクリスチャンは、産児制限や中絶によって自分の未来を破壊しています。これは神の裁きであると同時に、我々の未来への保証でもあります。たしかに、現在クリスチャンは、数において彼らよりも劣っており、抑圧されていますが、もし子供の価値を正しく評価し、彼らを訓練し、産児制限の誘惑をはねつけるならば、ほんの数世代で、我々は国家全体を支配できるだけの数まで増えることができるのです(拙著「再建主義の伝道観」を参照)。

 

聖書が教える支配を正しく実行するには、我々は、未来志向になる必要があります。未来の世代のために、現在の個人的な平和や繁栄を犠牲にするだけの意気込みが必要なのです。つまり、単に自分の個人的な願いや願望に目を留めるだけではなく、全地が神の栄光で満たされる栄光の未来に目を留めなければならないのです。これは特別新しい考えではありません。ほとんどのアメリカ人は、旧世界にあったすべてのものを捨ててアメリカにやってきた移民を先祖に持っています。第一世代で「アメリカンドリーム」を達成した人は、ごくわずかでした。まったく何もない荒野を開墾したわけですから、かえって生活が苦しくなった人々のほうが多かったのです。しかし、我々の先祖は、自分の個人的な幸せのためにやってきたのではなく、自分の子供や孫やひ孫たちのことを第一に考えていました。彼らは、子孫に未来と希望を与えるためにあらゆるものを犠牲にして働いたのです。そして、この犠牲により、彼らの子供たちは、親が築いた基礎の上に、歴史上最も自由で、最も豊かな国家を建設することができたのです。

 我々が失ったものを再び取り戻すためには、まず、我々の先祖たちがどのような献身の業をなしたのか、また、彼らがどのようなビジョンを描いていたのかを思い出さねばなりません。我々の子供たちは、未来のための礎です。彼らを通じて、我々は、次の千年紀におけるアメリカの文化の方向性を決定することができます。たしかに、この働きに本腰を入れるならば、我々は個人的な犠牲を強いられるかもしれませんし、子供をヒューマニズムの公立学校に通わせる共働きの家庭よりも所得が低くなることもあるでしょう。しかし、我々が犠牲になることによって、アメリカに再び真のキリスト教文明を呼び戻し、全世界をキリストの御国に変えることができるのです。

 

もちろん、この決断をすれば、我々は、今日ほとんどの福音的クリスチャンが信じているのとは異なる家庭観を持つことになります。神が我々に子供を与えてくださったのは、我々に必要な経験をさせてくださるためではありません。または、自分の子供の頃味わった傷跡を消すためでもありません。神が我々に子供を与えてくださったのは、彼らを愛し、教え、訓練して、彼らに勝利を得させるためなのです。子供は、神の戦士です。子供が、神の御名によって支配し、神の方法によって世界を統治することができるように、彼らを正しく育て、整えるのが我々の務めです。我々は、ヒューマニズムのプロパガンダから彼らを守り、純粋なキリスト教教育を施さなければなりません。我々は、彼らに正しい教理を教え、家庭礼拝を守ることによって、彼らを霊的に整えなければなりません。我々は、彼らの職業のために予備訓練を施さなければなりません。彼らに、聖書的な男性像、女性像の模範を示し、相続財産を遺さねばなりません。

 

最も重要なのは、彼らを未来志向の人間にすることです。我々は、ただ自分のために生きているのではなく、まだ見ぬ何世代後の子孫のためにも生きているのです。我々は、「被造物支配の命令」から逃れることはできません。もし、我々が子供たちの教育を誤り、支配のための準備を怠るならば、ヒューマニストたちや神を憎む者たち、偶像礼拝者たちが支配することになるでしょう。神を憎む者たちは、神に敵対し、裁きを自らに招くでしょう。そして、社会はますます悪に染まり、堕落と倒錯がますます蔓延ることになるでしょう。もしそうなるならば、それは、大部分我々の責任なのです。

 

未来の世代が我々の時代を振り返る時に、彼らは何と言うでしょうか。我々が神的支配のために献身して努力したことを評価するでしょうか。それとも、「得られるはずのものが得られなかった。これは先祖のせいだ。」と言って、我々を呪うでしょうか。子供は、神の勝利と御支配をこの地上にもたらすために与えられた財産です。我々は、子供がたくさん与えられるように祈らなければなりません。我々は、子供たちを愛し、彼らに訓練を施さねばなりません。そうするときに、我々は、彼らを支配のための戦士として正しく整えることができるのです。

 

(Rev. Brian M. Abshire, "Children as Instruments of Dominion, "CHALCEDON REPORT, MAY 1999, P.8 の翻訳。This article was translated by the permission of Chalcedon.)




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