カルヴァンは千年王国を否定していたか?

 

奥山師は、知ってか知らずしてか、他者の文章を論文の中で自説に都合のよいように引用する悪い癖があるようだ。彼は次のように述べている。

 

「周知のごとく、宗教改革者のルーテルも、カルビンも(カルヴァンなどと言う気取った言い方は嫌いなので、神戸改革派神学校時代からの呼び名、愛する「カルビン」と呼んでいきたいので、よろしく)、千年王国論をカトリックと共に切って捨ててしまった。ルーテルは、それを「異端」とまで言っているのは周知のこと。カルビンは、かの有名な『キリスト教綱要』の中で、『あまりにもたわいがないので、論駁の必要も、価値もないものである』と言ったことも、カルビニストの神学者の中ではよく知られている。」

 

このカルヴァン(カルヴァンという呼び名は別に気取っているから使っているわけではない。この方がもとの発音に近いからである)の引用に注目していただきたい。奥山師は、カルヴァンは千年王国論を否定したと述べておられるが、しかし、カルヴァンのもとの文は、千年王国そのものを否定したのではなく、奥山師が頑強に主張しておられるプレ・ミレそのものを否定する文章なのだ。

 

「すぐに、キリストの支配を千年間に限定する千年王国論者(Chiliasts [TT――つまり、Premillennialist])が現われた。彼らの作り話は、あまりにも幼稚すぎて反論する値もないのである」(キリスト教綱要第3巻25・5)。

 

ポスト・ミレは、キリストの支配を千年間に限定しない。キリストの昇天以後の歴史全体をキリストの王国と考える。キリストの支配を千年間に限定するのは、プレ・ミレである。奥山師は、千年王国を文字通り千年間ととらないのは、「歪んだ考え方」ですらあると述べている。

 

しかし、カルヴァンは、この個所の直ぐ後において、次のように述べている。

 

「ここ(黙示録20章)で言われている千年間は、教会の永遠の祝福について述べているのではなく、この世において戦う教会を待ちうけている様々な困難について述べているのである(since the thousand years there mentioned refer not to the eternal blessedness of the Church, but only to the various troubles which await the Church militant in this world.)。」

 

つまり、カルヴァン自身が、ポスト・ミレと同じ立場に立ち、黙示録20章の千年期を、この歴史内における教会の戦いの時期と考えている。

 

みなさん、これをご覧になってどう思われるだろうか。奥山師のキャラクターを疑いたくなるではないか。もし故意であるならば、奥山師から奥を取らなければならないだろう。故意ではなく、うっかりであることを期待したいものだ。

 

 

 

 




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