千年王国は未来の出来事か?

 

<ご質問>

 黙示録20・4−6「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」において、はっきりと、死者が復活して、それから、千年王国が始まると記されているのではないでしょうか。

「生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」とありますから。そして、「これが第一の復活である」と言われています。また、「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。」とあるわけですから、千年王国は未来の出来事であると解釈せざるを得ないのではないでしょうか。

 

<お答え>

 ここで「生き返って」と訳されている言葉'εζησανは、必ずしも「生き返った」と訳さなければならないわけではありません。もともと、現在一人称能動態ζαωの原意は「生きる」であり、'εζησανはその過去形ですから何か特別の限定語句や復活を示す状況がついていない限り「生きた」とか「生きていた」と訳するのが普通です。しかし、聖書の中に「生き返った」という意味で使われている個所が何箇所かありますから、「生きていた」でも「生き返った」でもどちらでも翻訳が可能です。「生きていた」と訳すると、「死者たちもキリストにあって生きている」という聖書全体の主張と調和しています。キリストは、「アブラハム、イサク、ヤコブは生きている」と述べています。

 

「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22・32)

 

 事実、キング・ジェームズ訳では、「生きていて」と訳されています。

 

 また、たとえ「生き返った」と訳すのが正しく、「死者は第一の復活において生き返り、キリストとともに王となった」と解釈するのが正しいとしても、それが必ずしも、プレ・ミレが主張する未来の千年王国直前における「死者の復活」を表していると解釈しなければならないとは限りません。

 

 なぜならば、キリストが十字架について復活、昇天された時に、すべての信じる者たちがそれに連なったと考えられるからです。

 

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2・12)

 

 クリスチャンは、バプテスマによって、キリストとともに死んで、ともに復活した、と言われているのです。これは、未来のことを言っているのではありません。なぜならば、「よみがえらされた」と過去形が使われているからです。

 

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5・25)

 

「死人が生きるようになる」ということをもっぱら再臨の時だと考えることがいかに歪んだ解釈であるかは、この一節だけからも明らかです。それは、死人が神の子の声を聞いてよみがえるのは「今だ」と言われているからです。旧約聖書の聖徒たちは、イエスとともによみがえったのだということを聖書は証言しているのです。

 

「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。」(マタイ27・50−53)

 

イエスが十字架にかかって、神の御怒りを受けて、死なれ、クリスチャンの罪がすべて処罰されたことによって、次のことが明らかになりました。(1)クリスチャンは自由に至聖所に近づき、神と交わりを持てるようになったこと、(2)クリスチャンはよみがえって永遠に生きる者とされたこと。

 

 第一の復活とは、キリストにおいて実現しました。この第一の復活において、キリストとつながれているクリスチャンは生きている者も死んでいる者もともによみがえったのです。

 

 そして、キリストとともによみがえったクリスチャンは、キリストとともに昇天して、現在神の右の座についています。

 

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録3・21)
 
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2・4−6)

 

ヨハネに現われたキリストは、勝利を得るクリスチャンを「わたしとともにわたしの座に着かせ」ると言われました。クリスチャンはキリストと「ともにすわ」っているとパウロは言っています。キリストが座っているのはどこでしょうか。そう、神の右の座です。クリスチャンも神の右の座に「今」一緒に座っているのです。なぜならば、エペソのこの個所では「すわらせてくださいました」と過去形が使われているからです。

クリスチャンは、今すでに王であるということがここで明らかにされているのです。

 

クリスチャンが王になることが、もっぱら未来の出来事であると考えることはできません。それゆえ、黙示録の20・4−6をもっぱら未来の出来事とし、千年王国を未来においてのみ到来する御国と解釈することはできないのです。

 

 

 

 




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