キリストのいのちの価値と贖いの範囲

 

 クリスチャンの罪の刑罰を贖うのは、キリストの血による。

 それは、何故だろう。

 立派な人間の血では何故だめなのだろう。

 まったく罪のない人間がもしこの地上にいるとして、その人間の血ではだめなのだろうか。

 だめなのだ。

 それは、その人間の血の価値が限定されているからである。

 人間の血では、他の一人の人間の贖いしかできない。

 しかし、キリストの血の価値は無限である。キリストのいのちは何よりも尊い。

 だから、キリストでなければ、我々の罪を贖うことはできない。キリストでなければ、万物を贖うことはできない。

 

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです(コロサイ1・19-20)。

 

 旧約聖書において、律法や祭壇にまで血が注がれ、贖いが行われた。なぜならば、たとえ律法や祭壇であっても、贖いの血がなければ、清くならず、神に受け入れられるものにはならないからである。

 アダムが堕落した時に、万物がそれに巻き込まれた。

 

あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった(創世記3・17)。

 

 自然は堕落している。自然を純粋なものとすることはできない。だから、神の礼拝に用いられるすべてのものが、まず、血によって清められなければならなかった。

 この旧約聖書における動物犠牲の血は、キリストを指し示している。

 キリストが万物を贖うことを示している。

 

 キリストの血は何よりも尊い。なぜならば、それはキリストが神であるからである。神であるキリストのいのちは万物を甦らせる力がある。

 だから、我々は、絶望する必要はない。

 どこにおいても、どんなときでも、我々には勝利があり、復活がある。恒久的な失敗など我々にはありえない。

 なぜならば、キリストが万物を贖われたからである。万物――場所的だけではなく時間的にも――が贖われたので、いつどんな場所においても、我々は、神の支配の中にいるのであり、キリストの贖いの中にいる。だから、どのような場所、あらゆる時間において、勝利を確信できる。

 

クリスチャンに絶望が似合わないのは、万物がすでにキリストの贖いを受けているからである。

 

 

 

 




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