人間は押しつけを徹底否定できない

 

>創造主は被造物より上位の存在であるはずなんだから、人(たとえ

>ばtomi氏など)が「神のご意志」について述べるのは、無知か傲慢

>のいずれかであろうと思う。自分の能力や権限を越える事柄につい

>ては、沈黙すべきである。

 

 たしかに「神のご意志」について、有限な人間は知ることも語ることもできないと考えても無理はないでしょう。

 しかし、神がそれを知らせようとされたと言うならば、どうでしょうか。

 聖書は、「神は人間に御心を啓示されたのだ」と主張しています。

 もしそれが真実ならば、人間は神の御心について知ることができるということになります。となれば、御心について語る人々(牧師や神学者やクリスチャン)がいても、彼らを必ずしも傲慢者・無知者呼ばわりはできなくなります。

 

>>人間は、むしろ、押しつけられたいという本能を持っている

>>のであり、それなるがゆえに宗教に群がるのです。

>>例えば、日曜日に教会とか寺院とかに行って、説教や法話を聞

>>きにいくのは、牧師とか坊さんの価値観を押しつけられたいか

>>らです。

>押しつけを嫌う人間だってたくさんいるってことを、忘れている

>んじゃないの?

>牧師や坊主の説く価値観の嘘・矛盾を見抜いてしまう人間がいるっ

>てこともね。マゾヒズム(他者の命令に服従することにより、安心

>感や快楽を得ようとする心理)は単なる神経症の一形態であって、

>克服すべき病だと思うが。確かにマゾヒズムの要素ってのはたいて

>いのひとに観察しうるものではあるが、だからといって「本能」の

>一部にしてしまうのは論理的ではないし、科学的でもない。

 

 押しつけが一切無くなったら、人間は不安で仕方がありません。

 人間は、生まれた時から、いろんなものを押しつけられてきたのです。まず、言葉です。私たちは日本語を選択して習ったわけではない。両親がしゃべっていたからです。

 その他、社会で生活する上で守るように教えられてきた様々なことも、ほとんどが自分で考えて選択したものではありません。

 

 「自分は完全に独立してものを考えたい」というのは、一つの理想論であって、何から何まで押しつけを徹底拒否することは不可能です。

 

 さらに、人生の大きな試練に直面したときに、自分だけに頼ることができるか、という問題があります。

 

 誰の人生にも、「これまで支えとしてきた柱」を試される時がやって来ます(マタイ7章)。

 

 試練は、自分のちっぽけな自信や信念などを一瞬のうちにふっとばす強烈なものです。世界において宗教や信仰が絶えなかったのには理由があります。 

 

> ギリシア神話にも、古事記における神代の記述にも、

> 神が人に命令する場面が出てくる。

> ていうか、世界中の民族はたいてい似たような神話を持っていて、

> 神の命令に従順な者を祝福し、

> 反抗する者にバチ(それも、犯した悪事とは不釣合いに冷酷な刑罰)を与えたりする。

> おれがtomi氏に尋ねたく思うのは、ユダヤ神話だけを特別扱いし、

> そこに宗教的な教訓を見つけようとしているのはなぜかということだ。

> 人間に理屈を立てる能力を与えたのは神でしょ。

> とつぜんその能力の使用を禁止し、無条件服従を強いるのはなぜ?

> tomiさん、あんたは神の代理人か? 代理人だと主張するなら、

> 信任状を見せてほしいなあ。

 

(1)

 理屈を立てる能力を使用することを禁止しているわけではありません。

 むしろ理屈を正しく立てるならば、神が無条件服従を強いることは当然だと考えなければなりません。

 

 「神が世界を創造した」→「神は私を創造した」→「神は私に対して主権者である」→「私は神に無条件に服従しなければならない」

 

 これじゃあ、フセインと同じ暴君ではないか、というご指摘については、

 

「絶対服従を要求する者は絶対服従を要求するための資格が必要」→「フセインは私の創造者ではない」→「私はフセインに絶対服従する責任はない」→「しかし、私の創造者である神は私に絶対服従を命じる権利がある」→「私は彼に絶対服従しなければならない」

 

 つまり、「絶対服従を要求する者はすべて悪者」という図式は成立しないのです。創造者でもない人間が絶対服従を強いることは悪です。

 

(2)

 ユダヤ神話だけを特別扱いするのは、なぜかという御質問について。

 

「神は主権者である」→「神は人間に対して服従を要求する」→「服従させるには命令を知らせなければならない」→「神はユダヤ人を選び彼らを通して啓示を与えた」→「我々はユダヤ人の手による啓示を特別扱いしなければならない」

 

では、ユダヤ人の神話が創造者の啓示であるという証拠は何か?という疑問が起こるでしょうが、

 

「創造者は意志を啓示する」→「この意志が間違い無く創造者からのものであることを聖霊が証しする」

 

「いや〜、聖霊が証しするかどうかなんて分からない。そんなの体験したことない。主観的だ。もっと客観的な証拠はないのか」という疑問については、

 

「創造者は被造世界において最高権威者である」→「他の被造物の権威を借りることはできない」→「創造者の直接の宣言以外証拠は存在しない」

 

我々人間が何かを主張するときに、文献を列挙したり、観察結果を示したりして「証拠」を呈示しなければならないのは、「我々には権威は存在しない」からです。我々が「俺は火星に行って来た。」と宣言しても、「証拠は?」と言われます。なぜならば、「我々は信用がない」から。

 

しかし、創造者はこの被造世界を創造されたので、それ以上の権威は存在しない。だから、創造者は証拠を示す必要がないだけではなく、「証拠を示してはならない」のです。

 

証拠は自分自身以外ないから。

 

蛇足になるかもしれないが、一つ例を挙げます。

Aという会社があった。A社はその創設者によって経営されていた。

この会社では、その創設者が最高権威であり、最終決定を下す権威があった。社員が何かを決定しても、「本当に社長の同意はあったのか」という「証拠」を示さねばならない。社長の同意を確認したら、社員は安心してそのプロジェクトに取り組むことができる。しかし、社長自身が「こうしよう!」と宣言したら、他の誰の同意も必要としない。なぜならば、社長以上に権威はないし、社長の決定はそれ自体が「証拠」だから。

 

それと同じように、この被造世界の中において、創造者の直接の啓示以外のものを証拠として持ち出すことはできない。

 

だから、キリスト教の世界は、循環論の世界なのだ!

 

「神はこう言われる」→「どうして神はそう言われたのかわかるのか」→「聖書に書いてあるから」→「どうして聖書が神の言葉だとわかるのか」→「聖書がそう言っているから」

 

ただし、人間の思考は、どのような形であれ、循環論から出ることはできない。

 

なぜならば、「人間の思考」が権威があると誰も証明できないから。

論理的に考え、科学によって証明されたことが真理であると証明することはできない。

 

例えば、「俺は、この目で見ない限り幽霊なんて信じないね」と言ったら、

「あなたの目によって知覚することがあなたにとって最終的な権威を持つ証拠は何ですか?」と聞かれます。

 

「いや〜、俺がこの目で見たならば確かなんだよ!」といくら叫んでも、錯覚ということもあるし、人間は心理的な要素によっても見えることは影響を受けます。人間の知覚に頼ることに絶対的な権威があると断定できません。錯覚を排除するためにどんなに理論や実験を積み重ねても、それが最終権威であると断定できません。どこに落とし穴が含まれているかもしれません。

 

これがイギリス経験主義が示した「帰納法的認識論の限界」なのです。

 

そして、それゆえに、現代科学は、「科学的真理はどこまで行っても蓋然的であり、絶対の真理には到達できない。」という限界を認めているのです。

 

人間という有限で相対的な存在が知ることができる知識は、どこまで行っても有限です。だから、どうしても循環論から抜け出すことはできません。

 

(3)tomiが神の代理人かどうかという問題について。

「神は人間に意志を啓示している」→「それが人間の恣意によって曇らされないように、聖書という書物に記した」→「神は聖書を歴史の中で純粋に保たれた」→「人間は聖書によって神の意志を知る」→「聖書の教えを述べる人はみな神の代理者であると聖書自体示している」→「神の信任状は聖書そのものである」

 

 

 

 

 




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