人間は競争の世界の中に産まれたのである

 

アメリカ米の安い弁当が売り出された。

これに対してJA全中が反対運動をしているが、日本の米の価格をつりあげている張本人は農協である。

同じ品質ならば、安いものを購入する消費者の権利と自由を奪うこのような保護政策はもうすでに時代遅れである。

一般に、他の業界は、品質改善とか、合理化などで、外国の商品と対抗するために様々な工夫を凝らして競争力をつけてきた。市場経済とは、そういった努力をしなければ生き残ることはできない場なのだ。政治に守られてこういった努力をしなければ、むしろ、その業界は体質がいつまでたっても改善されず、結局は、生き残ることはできなくなってしまう。政治的な解決に逃れることは、長い目で見れば自殺行為である。これまで保護されてきた業界は、今開放の流れの中で耐えきれなくて滅びつつあるではないか。

この世界にいる人間や社会は、みな、「自らの取った行為に対する裁き」から逃れることはできない。

努力をしない人々や社会は、市場から裁きを受けて、消えて行く以外にはない。その裁きを避けるために政治に頼ることは、幻を追い求めることに等しい。

社会主義は、政治的な解決に頼ることによって、市場の裁きを避けることができると考える。だから、ソ連においては、粗悪品でも、必ず買い手がついた。なぜならば、その商品について、その工場や企業しか製造してはならないからである。ソ連においては競争は排除され、その結果粗悪品が席巻し、まともなモノが手に入らなかった。

美濃部都知事がやった学区制も同じように、裁きを回避することを善と考える神学から生まれている。

よく、クリスチャンは、「裁くのはよくありません。神は罪人を哀れんでくださるのです。」と言うが、まったく問題を履き違えている。

聖書では、「裁け」と述べている。「裁くならば、正しい裁きをしなさい。」とイエスは言われたではないか。イエスが、裁判制度を否定されたであろうか。いや、イスラエルの裁判制度を作ったのは、神御自身だったのだ。人間は、善と悪を区別して、それを正しく裁かなければならない。それこそが、人間がこの地上に「神の代理者」として、また、「王」として置かれた理由である。

現代のヒューマニズムの世界の中において、裁きを回避しようとする欲望は強い。しかし、人間も社会も、自分の取った行動、怠惰、不勉強に対する裁きから逃れることはできない。コツコツと努力をしない者、知恵を得ようとしない者、政治の保護に逃れようとする者は、神の作られたこの世界において夢見る者である。彼らは現実逃避者である。今日のキリスト教は社会主義の影響を濃厚に受けているので、社会主義者と同じように、裁きをしないことを愛だと誤解している。

人間は、競争の世界の中に産み落とされた。

政治に救いを求める社会主義者は、ソ連が滅んだのと同じように、滅びる以外にはない。

 

 

01/07/18

 

 

 

 




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