犯罪に甘い社会は崩壊する

 

 自動販売機で500円玉が使えません。

 500円玉そっくりのウォン硬貨を変造して、中のおつりを抜き取る自販機荒らしがいるからです。

 500円玉が登場したのは、主に自販機に使える少し大きめのお金が必要だという理由があったためです。

 しかし、自販機荒らしのために、せっかくの500円玉も利用価値が半減してしまいました。

 社会全体から見れば、自販機荒らしをやる犯人のパーセンテージは、ごくごく小さなものです。

 しかし、犯罪者が与える影響は社会全体に及びます。

 人の家に押し入る人間の数はごく少数ですが、彼らに備えるために、すべての家にカギがついています。

 もし、この世の中に犯罪者がまるでいなければ、社会はもっと有用なことのためにお金を遣うことができるでしょう。

 カギを買わず、防犯装置を備えずに済むので、建設費が安上がりになるでしょう。

 自動販売機には、新たに、500円玉を判別するための精度の高い識別装置が備え付けられるようですが、ほんの少数の犯罪者のために、社会全体は、巨額のお金を遣わねばなりません。

 ポルノを提供して商売にする人々の数は、ごく少数でしょう。

 しかし、ポルノによって社会全体の倫理観、風紀は乱れます。

 イエスは、「パリサイ人のパン種に気をつけよ。」と言われました。「パン種はたとえ小さくとも、粉全体を膨らませるから」と。

 罪はどんなに小さいものでも、その影響力は大きいものです。

 犯罪者の数が少ないからと言って、犯罪に対して甘い顔をすることはできません。

 罪の影響は、社会全体に及ぶからです。

 それを放置したり、許容することによって、影響は拡大され、社会全体が堕落したり、危険に晒されることになります。

 罪に甘い顔をする社会は、自殺しようとする社会です。(*

 

 

 

*)「キリスト教は、罪人に寛容な社会を望んでいる」というのは、迷信です。

 「キリスト教は、『悔い改めた』罪人に寛容な社会を望んでいる」ということは言えても、「『悔い改めもしない確信犯』に寛容な社会を望んでいる」と言うことはできません。

 神は、社会に、厳正な裁きを命じておられます。(**

 

 

 

**)人間は地上を統治するために召されているので、何でもかんでも神の直接の裁きを待つわけにはいきません。

 神の直接の裁きは、人間が自分の分を完全に果たした後に下るものであって、最初から、自分の責任を放棄して、「神様やってください。」という態度は、間違っています。

 申命記において、モーセは、裁きのシステムを確立しました。小さな問題を裁くために下級裁判官を定め、それでも解決がいかない場合には、中級の裁判官を定め、それでも解決がつかない場合は、モーセのところにもってくるように命じました。

 このように、人間は、神によって裁きを委ねられており、自分たちを神の規範に基づいて統治しなければなりません。(***

 

 

 

***)統治の方法は、ボトムアップ方式です。

 聖書は、共産社会が行ったトップダウン式の統治組織ではなく、民主社会がもっているボトムアップ式の統治組織を勧めています。

 トップダウン式が許されるのは、軍隊などごく限られた組織だけです。

 神は、人間の自発性を尊重しておられます。

 自由な社会は、個人のイニシャチブを尊ぶ社会であり、ボトムアップ式の統治組織です。

 個人が、社会の必要を察知して、そこに商売のチャンスを探っていくことにより、社会の隅々にまで奉仕の手が伸びます。

 それに対して、トップダウン式の社会は社会の隅々にまで手が及びません。

 ソ連の物不足を見れば一目瞭然です。

 上部の計画によって、例えば、石鹸を作り、配布すると、本当に必要な地域に石鹸がとどかず、有り余っている場所に届くという配分のミスが生じます。

 消費社会に必要なのは、計画ではなく、商業です。商人は、どこに何が欠けているかを鋭い嗅覚をもって察知し、そこに必要なものを届けます。

聖書は仲介業を重んじているのです。

 

 

 




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