創造を神話であるとしたくなる心情

 

 近代科学は、キリスト教文化圏から生まれた。

 西洋の歴史を学んだことのない、または、学んでも反キリスト教に偏向した教師から学んだ人々は、「近代科学は、キリスト教との対決の中で生まれた」と考えがちであるが、実際は逆である。

 ガリレオ裁判などが、この謬説の証拠としてよく挙げられているが実情は大きく異なっている。日本の科学史研究の権威渡辺正雄氏はこの点について次のように述べている。

 

「ガリレイは、生涯誠実なキリスト教徒であり、カトリック教徒であった。・・・ガリレイは、この(コペルニクスの)地動説に賛成であり、1632年に『天文対話』を出版して地動説を弁護したことで、罪に問われた。しかしそのガリレイは、何も教会に反対したり、キリスト教に反対したりしようとはまったく考えていなかった。彼はむしろ、教会がいつまでも地動説に無理解のままでいたのでは、教会のためにも、また彼の母国イタリアのためにもよくないと思っていた。アルプスの向こう側、ドイツには、ケプラーという優れた天文学者がいて、素晴らしい成果をあげつつあった。ガリレイは、このケプラーと親しく手紙のやりとりをしていた。そのケプラーは、ガリレイの仲間の研究者であるとともに、いい意味の競争相手でもあった。カトリックのイタリアは、プロテスタントのドイツに負けてはならない。こういう気もちでガリレイは、法王やローマ教会の主だった人々に何とか新しい天文学を理解してもらおうと努力していた。」(『科学者とキリスト教』68ページ、講談社)

 

 日本人はキリスト教文化について、縁遠いため、脱キリスト教の過程にあった近現代の西洋文化人からの偏狭な情報を鵜呑みにしてしまっているが、もう一度、史実を直に調べてみる必要がある。

 

そうすれば、「キリスト教は非科学だ。」とか「創造は神話だ」とかこっぱずかしいことは言えなくなるだろう。

 

 

 

 




ツイート