キリスト教の脱ギリシヤ化を徹底せよ

 

 ドーイウェールトの哲学分析は素晴らしいものがあると思っていますが、残念ながらヴァン・ティル的な前提主義にしっかり立たないので、一般恩恵という名で「クリスチャンでもない、かといって世俗でもない中立領域」を受け入れてしまうということになっていると思います。領域主権という概念は、ヴァン・ティルを土台に据えないと多神教にすらなりかねない問題をはらんでいると考えます。

 ラッシュドゥーニーは、カイパー派は新プラトン主義の影響を受けていると述べています。

 

 わたしは、キリスト教が、初期にユダヤ人から異邦人の手に渡って以来、異邦人化され、いびつなものになったと考えています。事実、ローマがキリスト教を受け入れたときも、ユダヤの習慣や文物を忌避することが徹底して行われました。そのため、異邦人に受け入れやすいという実用主義的な理由で、キリスト教からユダヤ性(ただしユダヤ性がそのまま神的権威を持っているという意味ではありません。あくまでもユダヤの歴史の中においてユダヤ人を統治するために与えられた聖書の戒めは、そこからユダヤの民族的背景をすべて捨象して抽象化してしまうことはできず、その民族的時代的背景を考慮しつつ、その普遍的エッセンスをすべての民族に適用すべきだという意味です。牛や羊の犠牲ではなく、キリストの犠牲こそが我々の贖いなのですが、それだからと言って、牛や羊の犠牲をすべて無視してよいのではなく、それらがキリストの犠牲の性質をよく表現しているという意味においてそれを学ぶことによって、よりよくキリストを知ることができると考えています。)が剥奪され、律法が無視され、ギリシヤの二元論によってキリスト教が再編され、自然法思想が導入された。アウグスチヌスも新プラトン主義の影響を濃厚に受けており、トマス・アキナスはこのようなギリシャ的な枠組みの延長であり、その体系の完成者ではなかったか、と。

 

 カルヴァンがこのギリシヤ二元論からかなりキリスト教をヘブライズムに立ちかえらせたが、それでも徹底した脱ギリシヤ化は達成できなかった。この、カルヴァンにおける不徹底さが、ひとつには、律法(十戒だけではなく判例法も)に対するあいまい(キリスト教綱要では反セオノミーを述べて、普通法を奨励しているが、申命記講解ではセオノミーを主張)な態度にあらわれ、そのようなあいまいさは、カイパー派における一般恩恵を軸とした領域主権概念において半ば自然法の侵入を許す立場となって結実している。「聖書のみ」というスローガンは、宗教改革において、「普通法」を受け入れたために、中途半端に終わった(ただし、当時の世界は普通法はほとんど聖書律法であったという事情も考慮しなければならないが)。

 

 また、同時に、ギリシヤ二元論の物質・現世否定は、改革主義における無千年王国説において結実した。

 

 もし、ポスト・ミレのように、この世界においてキリストとクリスチャンは王であり、地上においてキリストの王国を拡大しなければならない、との認識があれば、カイパー派における戦時中の妥協はなかったのではないか。

 

 ちなみに、私は、もしカルヴァンが徹底したセオノミストであり、ポスト・ミレであり、神のために地上王国を建設するという使命を強力に持っていれば、西欧における科学革命、産業革命の成果は世界の弟子化のために善用され、17世紀から20世紀の帝国主義列強の覇権争いと植民地主義に利用されることがなかったのではないかと考えています。

 

 しかし、実態は、キリストの大弟子化命令は、ノンクリスチャンによって悪用され、2度の世界大戦を招来し、覇権主義がもたらす破壊的な結末は、イギリス・フランス・ドイツ・日本などの列強を没落に陥れました。アメリカも、(共産主義封じ込めという意味もあったが)植民地にこだわるフランスに肩入れをしたために、ベトナムにおいて手痛いダメージを受けた。

 

 つまり、宗教改革において、ヴァン・ティル的な前提主義に基づく徹底したクリスチャンによる世界支配の使命意識が十分に発達していなかったことが、クリスチャンをして現世の諸問題に対処することに躊躇せしめ、そのために、ノンクリスチャンがサタンの誘いにしたがって、科学の力を利用して世界制覇に乗り出すことを許してしまった、ということなのではないか、と。

 

 教会史を見ると、サタンが最も恐れていることは、「クリスチャンがこの世界を支配するために努力する」ということにあると感じます。クリスチャンが地上王国建設に努力すれば、サタンはこの世界を自分の思い通りに動かすことはできなくなってしまう。

 

 だから、サタンの野心は、ギリシヤ的二元論をクリスチャンに信じ込ませ、この世に対して無関心にさせることにあったと感じます。それが反セオノミーであり、反ポスト・ミレとして現われていると感じます。

 

 律法は一貫して、「神の民による地上支配」のために存在します。神の御心にしたがって地上支配できない者は、地上から追い出されるという構造が一貫して存在します。

 

 それゆえ再建主義の主張は、このサタンの陰謀を根底から覆すものであり、彼にとっては「まさに痛いところをつかれた」ということなのだと思います。

 

 

 

 

 

 




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