吉井春人牧師の批判に答える7

 

<吉井先生>
私は再建運動の「再建」とは、リフォームド陣営の再建という意味と思ってきました。そのようなルーツは、自らを再建主義と呼ぶ人々の発言に骨子として随所に読みとることができると思っています。つまり、再建主義のトレンドは、古くからある改革主義のスタンスについて、現代的な視野から再確認している過ぎないのだともいえます。それで、教義的な出発点はすくなくとも目新しいものではなく、親しみを感じましたので、学びました。ですから、私は、当HP中のQ&Aの中でも、「再建主義を確信するに到らなかった」とはいっても、ホームスクーラーにとって、(Jフレームの言葉を借りて)、参考になる内容は多数あると表現しています。確信するに到らなかったのは、不勉強のためとおっしゃるなら私には帰す言葉がありません。そのとうりかもしれません。しかし具体的な聖書解釈に、受け入れがたいものがあったのです。それが「確信するに到らなかった」という表現になりました。「私が感じたような聖書解釈上の疑問を他の神学者も感じたのだろうか」と思い、欧米の学徒に学び、その聖書解釈についての意見は、私が素朴に疑問に感じていた内容と、一致しました。(ただし、批判書に対してただちに出版されたノースのやや感情的な反論書にもすぐに目を通しました。もっとも、バンセンが書いた再反論書は、もっと理性的とはうかがっていますが、まだ読んでいません。)私がS氏との対話のなかでいつも内側に示されていた聖句は、使徒1:7「いつとかどんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくても良いのです」です。それから、ヨハネ8:1−11の姦淫の現場でとらえられた女の記事。ここもバンセンによるものとして引用されることが多いのですが、再建主義サイドの典型的な解釈として、うけいれることができませんでした。それから、昨日みたカルケドンのサイトにも、どうみてもFシェーファーを揶揄したいだけなのではないかと疑われる文章がみられます。Fシェーファーは、もはや過去の巨大な影響力で、限界も確かにあったかもれません。しかし、いかにあれ、私にはそのような「鬼の首をとったようないいかた」を、真似ることはできません。どこかで「彼(シエーファー)はそれではいかに生きるべきかという解答を出さないまま、死んだ」といういい方もされていましたね。私は、ホームスクーラーから疎外されたくないから、「確信するに至っていない」と記したのではありません。シニカルな論評傾向と、その独特な聖書解釈を受け入れられなかったからです。本来再建主義批判がコンテンツではないので、私の属する教会と交友関係があるPCAが今のところ達しているところで留まります。今の私にはそれがせいいぱいですね。

<富井>
使徒1:7「いつとかどんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくても良いのです」という聖句だけから終末論について考えることには無理があります。というのも、聖書の他の個所には、歴史の行く末について無数の証言がありますから。その中でも最も有力なのは、「すべての国民を弟子とせよ。バプテスマを授け、私が命じたすべてのことを守るように教えよ。」です。もし「時期を知ることはどのような場合においても間違いだ」というのが正しいならば、この大宣教命令は「達成の可能性を明示されぬままに発せられた無責任な指令」ということになります。しかし、イエスは「天においても地においても一切の権威が与えられています。」「私は世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます。」とこの命令の成就について保証しておられる。つまり、「できるからやれ!」と言われている。「私が主権者であり、ともにいるのだから、全世界の国民を弟子とすることは可能だ。」と言われている。これは、時期が明示されていることを意味しているのです。つまり、この大宣教命令が成就する前に歴史が終わることはないのです。このことを補強する言葉は、「私があなたの敵をあなたの足台とするまで、私の右に座っていなさい。」「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。 」「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる(原語は「回復される」)時まで、天にとどまっていなければなりません。」です。つまり、「万物が回復されるときまでキリストは天にとどまっている」とハッキリと記されている。
聖書は、一箇所に拘ると全体が見えなくなります。今日常識とされている「時期指定はクリスチャンの責任外」という考えはけっして聖書的ではありません。もしそれが聖書的というならば、ここで挙げた聖句について納得のいく説明ができなければならない。
歴史的に見ても、20世紀前半まで教会は「教会は歴史内において勝利する」と考えてきた。カルヴァンは「千年王国」を「この世において戦う教会」と解釈していた。彼のポスト・ミレ信仰は、ジュネーブ信仰告白において明らかである。
。「問:御国の到来のためにあなたはどのように祈るべきか。答:我々は次のように祈るべきである。すなわち、主が日増しに信じる者の数を増やし、毎日恵みの賜物を彼らの上に注ぎ、ついに、主が彼らを完全に満たしてくださるように。主が、その真理をますます明るく照り輝かせてくださるように。主が御自身の正義を明らかにし、サタンと彼の国の暗やみを混乱に陥らせ、すべての不義を消し去り、破壊してくださるように、と。問:このことは今日すでに起こっているのだろうか。答:しかり。部分的には。しかし、我々は、それがたえず成長しつづけ、発展し、ついには、裁きの日において完成に至るように願わねばならない。…」

ヨハネ8:1−11の姦淫の現場でとらえられた女の記事については、バーンセンの解釈は、「この個所から無律法主義を主張することはできない」という論旨の脈絡の中でなされたものです。すなわち、「イエスは姦淫をした者を律法によって裁かずに許された」というのは間違った解釈である、もし、イエスは「律法を超越して許す方」であるならば、「律法の成就者」としての資格を失う。しかし、イエスは「律法を成就するために来」られたのだから、この個所において女を律法を破ってまで愛するということはありえない。ということは、イエスの対処法は、あくまでも遵法的であったはずではないか、それでは、どのようにイエスは律法を守られたのだろうか。という問いかけが基本としてあるのです。
このような深い意味での問いかけは、まったく聖書的であり、聖書に忠実であろうとする姿勢から生まれるものです。単なる「感情主義的・情緒的解釈」をしようとしているのではない。
もし先生がバーンセンの解釈を否定されるならば、では、どのような代替的解釈が可能であるかを示す必要があります。
つまり、「イエスは律法遵守者である」という命題と、「イエスは愛によって女を赦された」という命題をどのように調和させることができるのか、代替案をしっかりと示さねばならない。もし示すことができれば、「真面目な再建主義批判者」として再建主義者からも、また、「真面目な聖書信仰者」として一般のクリスチャンからも一目置かれるようになるでしょう。しかし、単なる「再建主義の理解に達しなかった」という短い文言だけで片付けようとするならば、「この人は無責任ではないか。」との疑念を読者に抱かれてしまいます。

シェーファーの仕事に対する批判がシニカルであるということですが、再建主義者は、シェーファーの仕事を評価しています。評価した上で彼の首尾一貫性のなさを批判しているわけです。
彼は、ラッシュドゥーニーの著書を熟読し、彼から多くのインスピレーションをもらって著作を出した。しかし、ポスト・ミレとセオノミーという意味において不徹底であったという批判があり、その批判が再建主義者からなされている。彼は、「それでは如何に生きるべきか」と問いかけて、ついにその答えを出さなかった。これは、事実です。あの著作には、どこにも答えらしきものは載っていない。事実を述べたことがどうしてシニカルなのでしょうか。聖書律法を除いて、どうして「如何に生きるべきか」という答えを出すことができますか?彼がヴァン・ティル主義者であるならば、「啓示によらず、世界を解釈することは不当である」というセオノミーの主張に首肯するはずです。なぜならば、「中立は存在しない」から。「社会制度全般については、啓示によらずに生活することを許される」ということは、「社会制度全般については中立が存在する」ということを認めていることになるのです。これは、間違いなく自己矛盾です。
シェーファーは「旧約律法の社会制度への適用」を否定したことによって、自らヴァン・ティルを否定し、「中立の領域」を容認したのです。
ヴァン・ティル自身も同じです。彼は旧約律法の社会制度への適用について「わかりません」と述べた。ヴァン・ティル自身が首尾一貫しなかった。
私は、大学時代このヴァン・ティルの限界を知り、解決を探していた。神学校においてラッシュドゥーニーとバーンセンと出遭って、真の解答を得た。私にとって、シェーファーとヴァン・ティルは、どちらも導入部でしかなかった。首尾一貫性がなければ、首尾一貫性を持つ人を歓迎するのは当然であり、首尾一貫性を持ったならば、それを持たない人々を批判するのは当然です。私は、べつにシェーファーやヴァン・ティルを軽蔑しているわけではない。彼らは私を途中まで連れて行ってくれた恩師です。しかし、恩師だからと言って批判の対象から外されるわけではない。正当な理由を示して批判されるのは、自分にとって利益でしょう。それを利益と考えられずに、話し方の面にこだわり、内容を拒絶するのは、とても真理の追究者の姿とは思えないのです。

 

 

02/06/18

 

 

 ホーム

 




ツイート