教育と法律

 

R・J ・ラッシュドゥーニー

 

 どの時代においても、社会において主導的な役割を演じている宗教の本質は、教育と法律においてもっともよく現れます。教育は、民族の将来を担う子供たちに、その教義を伝授します。法律は、何が善であり何が悪であるかを決定することによって、それを政治の中に反映させます。

 1950年までのアメリカのように、教育と法律を支配できない宗教は、すぐに過去の遺物として忘れ去られます。ジョン・デューイの哲学は、世界の多くの人々――特にアメリカ人――に、非有神論に基づく普遍的な信仰を提供しました。デューイ主義とは、デューイやその後継者たちが唱えた、人間中心主義に基づく教育の宗教でありました。

 一方、無数の教会員たちは、教育や法律を通じて反キリストの教えが広まることを助長しながら、自らを善良なクリスチャンと見なしていたのでした。数千人の会員を擁する多くの教会は、クリスチャンスクールやホームスクールに言及することを禁じ、神の律法を好意的に評価する者たちの口を封じていました。それにもかかわらず、彼らは「自分たちこそ信仰の中核である」と考えていたのでした。

 今日、クリスチャンは非常に難しい立場に立たされています。どのようにしたら、次世代をヒューマニズムの教育や反聖書的法律から救い出すことができるか解答を探しあぐねています。

 神の御摂理によって、1950年代以降、クリスチャンスクールやホームスクールの数は増え、ますます多くの牧師たちが、神の法を説くようになっています。

 社会の未来は、教育と法律にかかっています。現在、信仰を告白するクリスチャンがどれくらいいるかはどうでもよいことです。なぜならば、彼らが告白している信仰とは、「行いのない信仰」だからです。

 文化とは、宗教が形を取って現われたものであり、人々の信仰と生活を支配します。人々がある信仰を告白するということは、その信仰を生活のあらゆる領域に徹底的に適用し、それに完全に服従して生きるということを意味します。第二次大戦末期のころ、あるインディアンの、若い退役軍人がイエス・キリストを主、救い主と認め、告白しました。彼は、すぐさま、自分のすべての生活を聖書によって変えようとしました。まず、十分の一献金から始めました。「これは一番簡単な第一歩だからね。」と言いました。そして、全生涯にわたってそれを続けました。彼は、自分を神の財産、所有であると考えていたのです。

 もしかなりの数のクリスチャンがこれと同じことをしたならば、今日の世界において、私たちはどんなに多くのことができるでしょうか!主は、今、まさにこのことを私たちに求めておられるのではないでしょうか。

 私たちは今、とてつもなく大きな問題と直面しています。キリスト教を破壊しようとするヒューマニズムの文化と対決しているのです。ポール・リンドストローム、ジョセフ・モアクラフト、スティーブ・シュリセル、エルスワース・マッキンタイアなど、あちこちで神の人たちがこの戦いを戦い、相手を打ち負かしています。しかし、私たちは、まだまだ多くの神の戦士を必要としているのです。

 新しい世界には新しい人々が必要です。このような新しい人々を獲得することは、私たちの務めであり、クリスチャンスクールの目標なのです。筆者は、今週、ホームスクーリング出身の二人の女の子たちの証しを聞き、勉強の成果を目にする機会に恵まれました。キリストにある働きには、まさに驚くべき成果が伴なうことを彼女たちは実証してくれました。さあ、この働きに参加しようではありませんか。

(Rev. R.J.Rushdoony, Education and Law, in Chalcedon Report No.405, April 1999, p.2の翻訳。This essay was translated by the permission of Chalcedon.)

 

 

 




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