経験科学だけが科学か?

 

 神の存在とか、形而上学的な問題を経験科学の方法論によって判断しようとするのが、現代人がよく犯す基本的な間違いである。

 「神が存在する証拠を見せよ。」と言う人々や、創造科学を擬似科学呼ばわりする人々は、この基本的なミスを犯している。

「経験科学でなければ、科学ではない。」と定義するならば、創造科学は擬似科学と呼ぶこともできるだろう。なぜならば、創造科学は、「人間の経験から『のみ』出発する科学」ではないからだ。人間の経験『のみ』から出発する今日の経験科学は、観察して得られるデータ以外の何ものにも依拠しないという立場を取っている。

まず充分なデータを集め、そこから法則・理論の仮説を立て、そこから演繹によって個別事象を予想として取りだし、その予想事象が事実として起こることを観察において確認しようとする。もし確認できれば、仮説の確からしさが増し、確認できなければ、仮説は反証される。

これは、帰納的な認識の方法であり、演繹的な認識の方法ではないため、絶対に確かな知識を期待することはできない(なぜならば、人間はあらゆることをもれなく徹底的に経験することはできないから)。だから、経験科学は、常に検証の余地を残している。そして、「反証がない限り、今確認されている知識をとりあえず真理と定めよう」との「暫定的蓋然的真理」以外のものを経験科学は得ることは『原理的に』できない、というところで科学者は互いに納得している。

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さて、蓋然的な知識しか得られないと告白する現代の経験科学は、「これだけが科学である」と断言できない。なぜならば、(1)そもそも経験科学の手法そのものが、ドグマから解放されていないから。(2)経験科学が限界を告白するということは、知の方法においてもその他の認識の方法が存在しないということを断定できないから。

まあ、この(1)(2)はどちらも常識的なことであるから簡単に説明するが、(1)そもそも経験科学の出発点にあった経験主義の認識論は、「事物の印象(人間の感覚がとらえた対象の姿)について考察したことが事物そのものを考察することになるか」という疑問に答えることはできないとした。もしこの限界を受け入れてしまい、厳密な知の行為を続けようと努力したら、科学は絶対に成立しない。だから、どうしても、「事物の印象について考察したことは、事物そのものについて考察したことにしよう」との約束事から出発しなければならない。また、この事物そのものについての知識を得ることができないという限界がある以上、その事物について考察したことが、その事物が属する類全体について考察したことになると断言できない。それゆえ、普遍化、法則の発見を主旨とする科学はここにおいて原理的に成立しなくなる。そのため、こういった限界を乗り越えることができない以上、経験科学であろうとも、「印象について考察したことは対象そのものについて考察したことにしよう。また個物について考察したことは類について考察したことにしよう。」との約束事の上にしか成立できない。

(2)帰納法的な経験に基づく科学は、検証不可能なことについて何事かを言うことはできないので、自分のほかに科学が存在しないということを断定できない。つまり、経験科学以外の知の方法は、すべて間違いであるということはいえない。なぜならば、人間に確実な知識を与えることのできる神や霊的存在などがいないことを証明できないから。それゆえ、経験科学は、人文科学の方法や形而上学や宗教的な教義学を非科学とか擬似科学とか断定はできない。経験科学を主張するならば、「経験に基づく帰納法的な知の獲得の方法が唯一の科学的な方法であって、それ以外の立場は擬似科学だ」と言うことは口が裂けても言うことはできない。もし言うことができるとすれば、例えば、宗教教義学におけるドグマが間違いであることを具体的に証明しなければならない。例えば、キリスト教教義学は神の存在を前提としているが、神が存在しないことを証明することができれば、神の啓示に基づいて議論することが間違った知の方法であり、それを科学と呼ぶことはできないと結論できる。キリスト教有神論は、人間は、形而上的なこと、物事の本体、本質、意味など、経験だけからではどうやっても知ることができないことがらでも、それらについて完全な知識を持つ神から啓示を受けることができるので、確実な知識を得ることができる、とする。このような認識論を否定するならば、まずそのような完全な知識を持つ神が存在せず、存在したとしても神が人間に啓示することは絶対にないことを証明しなければならない。

 

 そもそも、経験科学は、カルヴァン主義から生まれた。F・ベーコンはカルヴィニストである。それゆえ、もともとの経験科学は神の存在、創造の存在を前提として成立していた。長い間、経験科学を担ったのは、プロテスタントの人々であり、とくにカルヴァン主義者であった。

こういった歴史的な背景を見ても、現代の似非経験主義者が、創造科学を擬似科学と呼ぶことがいかに噴飯ものであるかがわかる。

 

 

 

 




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