カルヴァンと幼児洗礼

 

>原罪の教義が早く神学的発達を遂げ
> たことは、幼児のバプテスマを重視する結果となった。三世紀のはじめ、キュプ
> リアヌスは、幼児のバプテスマを受くべきことは既定の事実であると考えてい
> た。」と語っています。
>
> このように、初代教会から二世紀末あたりまでは幼児洗礼はなかったようです。

資料を見ないとはっきりしないのですが、原罪の教義は、おそらく、初代教会からあったと思います。パウロは人間を「生まれながらに御怒りを受けるべき子ら」と呼んでいます。

しかも、初期のクリスチャンは、大部分がユダヤ人であり、彼らは、自分たちの宗教をユダヤ教の一派としてとらえており、最初の頃には明確な境界線を引いていませんでした。キリスト教を非ユダヤとはっきりと認識するようになったのは、4世紀のコンスタンチヌス帝の時代からであると言われています(ジョン・D・ガール博士)。

ということは、初期のクリスチャンはキリスト教を神とアブラハムとの契約のパラダイムの中でとらえており、当然、割礼に代わる契約の儀式として洗礼をとらえていたことは容易に推察できます。

「では、幼児についてはどうするか?」という問題が生じた場合、当然、幼児割礼にならって、幼児洗礼を授けたと考えるほうが自然であり、もし、そのように考えていないとすれば、「では、いったい、何が幼児洗礼を拒絶する理由となったのか」について明確な回答がなければならないと思います。

私たちは、グレコ・ローマンの文化によって塗り替えられた後のキリスト教しか知らないため、問題提起は、「では、いったい、何が幼児洗礼を授ける理由となったのか」という疑問から出発する傾向にありますが、初代教会の人々は、ドップリとユダヤ教に漬かっており、まだ、自分たちをユダヤ教とは異なるものと考えていなかったのですから、「幼児洗礼を拒絶すべき理由は何か」という疑問から出発していたと考えるべきと思います。


> さて、リフォームド・バプテストのジェームズ・ホワイトは日曜学校で2回に渡
> って「幼児洗礼」とう題で講義を行いましたが、彼は歴史的なバックグランドと
> して、改革派的幼児洗礼論はカルバン以前はだれも語っていないと言います。
> (カトリックの幼児洗礼論、ルター派の幼児洗礼論はそれぞれ違いますので、こ
> のホワイトも改革派の幼児洗礼論として論じています。このMLでも幼児の救い
> の保証としての洗礼は取り扱いません。)
>
> (ルターは幼児が両親に対して示す信頼は神に示す信頼・信仰であるとし、それ
> をセービング・フェイス(救いの信仰)と考えるとしたとホワイトは言いま
> す。)
>
> 宗教改革前、洗礼は市民権と教会会員権(メンバーシップ)の両方を得る方法で
> した。教会と国家はひとつでした。しかし、宗教改革によってフリーチャーチの
> 概念が出てきたのですが、宗教改革者第一世代のルターも第二世代のカルバンも
> 政治的指導者のサポートがなければ改革が実行できなかったゆえにさらなる改革
> はできずステートチャーチの必要性に妥協してしまったとホワイトは言います。
> それゆえ、カルバンは幼児洗礼擁護を聖書から義務付けられたわけです。

これは、あくまでもホワイトの推測であって、カルヴァンが綱要の中で幼児洗礼を聖書的と述べていることを、政治権力からの強制によると考える証拠はどこにもないでしょう。カルヴァンは、自分の意見が受け入れられないために一度ジュネーブを追われています。しかし、後になってジュネーブ市自身が三顧の礼でカルヴァンを招請しています。それ以後、カルヴァンはジュネーブ市の改革の中心にいた主導者であって、彼が政治権力から圧迫ないし半強制的影響を受けていたと考えることは難しいと思います。カルヴァンを「権力によって自分の意見を変えざるをえなかった人物」として描くには、それ相当の歴史的・文献的根拠が必要でしょう。

カルヴァンは、幼児洗礼を旧約聖書の割礼との延長でとらえています。そして、旧約聖書において神が幼児を契約に招いたのであれば、なおさら、新約聖書においてはそうされるだろうと述べています。

「すなわち、神は『小児の割礼は、契約の約束を証印する封印となるであろう』とはっきりと言明したもうからである。そこで、もし、この契約が今も変わらず堅固で・確実であるならば、それが今日、キリスト者の子たちにふさわしいのは、旧約のもとでユダヤ人の子らにこれが適用されたのに劣らぬわけである。…子供たちにもバプテスマの『御言葉』は向けられているのであるから、御言葉の付属物である『しるし』をどうして子供たちに禁じてよいであろうか。」(キリスト教綱要4・16・5)

カルヴァンの幼児洗礼論には、「神の契約の一貫性」という明確な神学的なバックボーンがあり、「いやいやながら」とか「こじつけ的」なものではけっしてありません。

> (私は以前セルグループについて深く学びましたが、セルグループのムーブメント
を指
> 導する人々はこれをセカンドリフォメーションと読んでいます。ルターもカルバ
> ンも教会論をリフォームできなかったことに対する批判と、セルムーブメントを
> リードする人々のこのムーブメントに対する意気込みがセカンドリフォメーショ
> ンと自らを呼ばせるのでしょう。)

カルヴァンをローマ・カトリックから完全に脱却していない人物とし、それゆえに、第二の宗教改革が必要だと考えることは一面において間違いではないと思います。例えば、カルヴァンの「聖書律法(セオノミー)」に対するあいまいな態度などです(申命記の注解ではセオノミーを、綱要では自然法を擁護)。しかし、それを幼児洗礼にまで適用することはどうかと思います。

やはり、カルヴァンの幼児洗礼論の非聖書性を示すこと以外にこれを論証することはできないと思いますが。

 

 

02/10/22

 

 

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