四季について

 

 自然世界は、神を証ししている。

 これを、特別啓示(聖書)に対して、一般啓示と呼ぶ。

 

 異教の場合、四季を、循環的歴史観の型と見る。

 歴史は無始無終であり、始まり(春)→繁栄(夏)→衰退(秋)→死(冬)という永遠のサイクルを繰り返していると考える。

 

 現代ヒューマニズムを支配する実存主義のひとつ、歴史主義も、このような循環的歴史観である。

 西洋哲学は、キリスト教の直線的歴史観から離れて歴史主義を唱えた時に、異教と同じ「相対主義」に陥った。

 

 キリスト教の場合、繁栄は神との契約を守った者に与えられ、衰退は契約を破った者に加えられるので、歴史は「倫理的」なのだ。

 

 しかし、循環的歴史観に立つ現代ヒューマニズムは、繁栄と衰退の原因を「倫理」に置くのではなく、「運命」に置く。

 

 だから、現代ヒューマニズムの歴史観の本質は、「不条理」なのだ。行為の結果はランダムに来る。善行と悪行と繁栄や衰退とは無関係である。善を行う者が必ずしも繁栄するわけではなく、悪を行う者が必ずしも衰退するわけでもない。

 

 このような歴史観は、行動の基準を呈示できないので、相対主義なのだ。「かくあるべし」と人々に倫理を主張できないし、さらに、この世界に働く法を示すことができないので科学的理念とも矛盾する。

 

 だから、歴史主義は、自然法の世界観を、倫理面においても、科学面においても、徹底して破壊したと言われている。

 

 さて、キリスト教は、四季を循環的歴史観によって考えない。

 

 冬は死を表し、春は復活を表す。

 

 キリストを信じる者は、絶望に陥ることはないということを春は示している。

 

 復活祭が春に行われるのは、キリストの復活が春に起こったからである。

 

 季節が循環するのは、キリストにある希望を表現するためである。

 

 どんなに厳しい冬が来ても、必ず春は来る。植物は再び花を咲かせ、動物や虫たちは活動を再開する。

 

 歴史が進展し、時間が経過するのは、世界が回復して、罪による死の状態から、祝福による生命の状態に回復することを示すためである。

 

 神は歴史を7日(安息日)、7年(安息年)に分割しておられるのは、この四季のサイクルと同じように、人々や家畜や土地や自然を回復させ、新たな一歩を踏ませるためである。

 

 労働で疲れた体や心は安息日に回復し、リフレッシュする。

 借金で疲弊した家計は、安息年に振り出しに戻り、奴隷は解放される。

 

 神は、契約を守る人間を回復させ、復活させることを望んでおられる。だから、安息日や安息年の制度は人間にとって欠くことができない。

 

 しかし、契約を破る人間には安息は与えられない。安らかで裕福な悪人もいるが、それは一時的であるか、本当の安息ではない。

 

 本当の安息はキリスト御自身にある。

 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)

 

 だから、キリストを信じる人々は、いつでも神との交わりの中において安らぎを得ることができ、回復し、復活することができる。

 

 自然は、神の契約を表現している。この世界は神との契約に依存している。だから、長期的に見て、契約を守る文化は繁栄し、契約を破る文化は衰退する。十戒を守る国は繁栄し、十戒を破る国は滅びる。たとえ、一時的に悲惨をなめることがあっても、善を行う文化や人間は、必ず回復し、繁栄の道を歩み始める。しかし、悪を行う文化や人間には滅亡しかない。

 

我々は、短期的にものを見るべきではなく、長期的な結末に目を留めるべきである。現在の悲惨な状況は、信仰を養成するチャンスである。冬が長いからといって、絶望してはならない。冬の後には春が必ずやってくるからである。 

 

 

 

 




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