福音宣教と社会参加を分けることはできない

 

> クリスチャンの社会

> 参加が多い米国より、中国で本当の神の国が拡大しているのでしょう。中

> 国ではクリスチアンの社会参加は制限されていますが、神様の働きには限

> 界はありません。森本師の山谷の働きも、伝道中心の働きでした。魂が真

> の神に立ち返る事により、退廃的町が自立できる町となりました。社会の

> 全ての所でクリスチャンは参加すべきですが、神様の導きがあるまで、待

> ち望む姿勢も大切でしょう。

 

 クリスチャンの社会参加という言葉は、福音主義の「福音宣教」と「社会参加」という二元論的分け方を連想してしまいます。

 再建主義は、このようなわけ方をしません。

 聖書において、福音宣教とは、「個人の全人的な変革」を意味します。ザアカイはイエスを信じましたが、同時にそれまで行っていた悪を悔い改めて、償いをしました。

収税人として、必要以上のものを奪いとったり騙し取ったりしていたものを返すといいました。そこで、イエスは、「ザアカイの家に救いがきた」と宣言されたのです。救いとは、その全人格において、神の主権を認めて服従する状態を言います。単なる天国行きのキップを手に入れることではありません。その人に関わるすべての領域において神の主権を認めて神の意志を実現することです。だから、福音宣教と社会参加とを切り離して、一方は重視されているが、他方は軽視されている…というようなものではないのです。

 今日の福音主義は、霊肉二元論に立ち、御国の活動を伝道に限定します。伝道だけが永遠に残る実を結ぶ働きであり、主の働きであると考えます。献身することは、すなわち、牧師や宣教師など教会関係の仕事につくことであると考えます。

 しかし、聖書において「教会(エクレシア)」とは、「あらゆる面における神の支配」を指すのであり、いわゆる今日のクリスチャンが言っているような「教会」はその一部でしかありません。

 聖書は、自分に与えられた職業を神に対するように行うならば、それが永遠の報いになって返ってくると教えています。主婦ならば、主婦として、神に対するように家族に誠実に尽くすならば、それが、そのまま永遠に残る実となります。

そして、神中心に行う職業活動によって、神の国は進展しているのです。自分が会社において上司に誠実に仕えることによって、(たとえその会社がクリスチャンの会社でなくても)神の国は進展しているのです。

 

補足: なお、アメリカ人は、たとえ現在プレ・ミレによって無力化されているとはいえ、世界において最も神の国のために活動している人々が多い国であり、献身的に活動している人々がたくさんいます。宣教師の80%がアメリカ人です。

01/10/10

 

 

 

 

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