フルプレテリズムは聖書の教理全体を破壊する

 

フルプレテリズムは肉体の復活を否定しています。

デイヴィッド・グリーンは次のように述べています。

「6.改革主義のクリスチャンは、いわば、神的『略奪者』でした。カルヴィニズムもプレテリズムも、一般的な主流派のクリスチャンたちを『快適にし』ません。カルヴィニズムは我々から『自由意志』の教理を奪います。また、その『限定的贖罪』の教理によって、多くのクリスチャンに、神とは不公平で残虐な御方だという印象を与えています。これと同じように、プレテリズムも、この世界からの携挙という教理を奪い、『完全無欠になった地球の上での生物学的な復活』の教理を奪うのです。」

肉体の復活を否定することは、伝統的なギリシヤ霊魂優位論と同じであり、けっして「小さな違い」ではなく、明らかに大きな、しかも核心的な違いです。

サタンのやり方は歴史的に類似しています。これまで異端は、「肉体軽視」か「霊軽視」かの、霊肉のバランスを欠くものでした。キリスト教において重要なのは、霊の要素だけではなく、肉体の要素です。霊だけの世界ではなく、肉体の世界があるからこそ人間の存在には意味があります。もし肉体が重要ではないならば、キリストは受肉しなかったはずです。

人間は、回心において霊的な復活を体験します。しかしそれはある部分において肉体の復活でもあります。なぜならば、主の癒しは部分的復活だからです。しかし、霊において我々の霊がこの歴史において完成しないように、肉においても完成しません。

パーシャル・プレテリズムがフル・プレテリズムを聖書からの論証によって完全否定することは難しいことではありません。パウロが肉体の復活を期待していたことはその手紙の中ではっきりと記されており、これはキリスト教の初歩的知識です。また、イエス御自身は、新しい肉体をもって弟子達の前に現われました。イエスは魚を食べられました。また、墓の中にあった肉体は消滅してしまったのではなく、その肉体が「霊的からだ」に変えられたのです。

これが「生物学的復活」でなくてなんでしょうか。そして、パウロは、これこそ「我々の復活の初穂」であり、「我々も同じようになるのだ」と述べているのです。

フル・プレテリストの問題は、「聖書を聖書によって解釈する」という原則を誤って考え、「同じ表現がされているから同じことを表しているだろう」と、前千年王国説と同じように字義的解釈の罠に陥ったのでしょう。イザヤ書でも黙示録でも「新しい天と新しい地」という表現があります。しかし、これを同一の「万物の更新」と解釈することはできません。一方は、「死」の存在を前提とし、他方は前提としていません。「主はすぐに来られる」という個所から黙示録は、「70年のローマ軍によるエルサレム破壊」だけを表したのであって、いわゆる世界の終末について述べているのではない、と解釈できません。サタンは火の池に投げ込まれたことはなく、死もそれといっしょに投げ込まれたこともありません。もし、これが紀元70年において成就したとするならば、「火の池」とは「永遠の監禁場所」ではないということになります。なぜならば、サタンは今も我々の回りで働いているからです。それゆえ、フルプレテリズムに立てば、「新天新地」とは、「クリスチャンがけっして堕落することのない場所」ではなく、我々が日々経験するような誘惑があり、そして罪に屈した場合に、罪の悔い改めをしなければならない場所であるということになります。

これがもし本当であるならば、我々がキリストを信じている意味はありません。なぜならば、我々がキリストを信じているのは、「我々は、けっして堕落することのない完全な人間についているので、肉体の復活後、罪からの解放は完全になる」という希望があるからです。フル・プレテリズムはこのような希望を奪ってしまうので、軽微な逸脱とは言えません。フルプレテリズムは、聖書の教理全体を狂わせます。

彼らは聖書を聖書から解釈するという原則を守っておりません。なぜならば、聖書を聖書によって解釈するとは、全体において調和がなければならないからです。様々な聖書の個所と矛盾し、全体の主張と調和させることができないならば、それは「聖書を聖書から解釈した」ということにはなりません。

フルプレテリズムは、再建主義の神学の登場とともにサタンがばらまいた毒麦の種です。初代教会が現われた後にグノーシスが現われ、カルヴァンが登場するとすぐにセルヴェトスやアルミニウスが現われたのと似ています。

 

 

02/02/22

 

 

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