キリスト教世界観に基づく教育

 

序論

主を恐れることは知識のはじめである。これは、あらゆる教科教育において言えることである。クリスチャン教育は、単に授業のはじめと終わりに祈りを行えばよいというようなものではない。また、カリキュラムの中に「聖書の学び」の時間を置けばよいというものでもない。

神が存在することと、聖書が誤りのない神の御言葉であり、人間のあらゆる判断における最終権威であるという信仰がなければ、今日のクリスチャン教育の世俗化の流れを食い止めることはできない。いくらキリスト教の授業を追加しても、各教科の教授内容や授業の方法が無神論ヒューマニズムに基づくものである限り、生徒の心にはヒューマニズムの世界観が植え付けられ、不信仰への道を閉ざすことはできない。

クリスチャン教育のカリキュラムの原理は、もっぱら聖書からのみ引き出されなければならず、この聖書的原理を自覚的に各教科の教授に適用しなければならない。

聖書の学び

クリスチャン教育のカリキュラムの基本は、聖書の学びである。生徒はまず聖書を学ばねばならない。聖書についての正しい知識と、正しい教理の理解がなければ、人間が作り出した様々な文物を正しく評価することはできない。

聖書の学びの目的は、聖書に登場する人物や出来事に関する単純な知識獲得や、様々な教理のばらばらな理解にあるのではなく、「聖書が教える真理の体系に関する統一的な理解」にある。

この、聖書研究を通じて得られる真理の体系の統一的理解こそ、キリスト教的世界観の基本となるものだ。キリスト教的世界観は、生活と思考のあらゆる領域に適用されねばならない。

各教科を正しく学ぶためには、生徒は、ただ読むことができるだけではなく、自分が読んだものを正しく評価するための規準をも与えられねばならない。

それゆえ、生徒たちがまず最初に学ぶべき書物は聖書である。聖書は、人間に啓示された神の御心である。聖書を通じて、我々は、創造、人間の堕落、贖いの計画について学ぶ。この知識こそ、正しい思考への鍵であり、生徒は、御言葉の光を通してのみ、自分が触れるすべての事物を正しく解釈できるようになる。

 

 

03/04/13

 

 

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