創造論や神学を似非科学とか擬似科学と批判する似非科学者

 

実証科学は、帰納法的認識論を基本とするが、帰納法的認識論は、ドグマをできるだけ排除しようとする。

人間が経験したことに基づいて論を組みたてるので、実証科学において、学説は常に例外なく「仮説」にほかならない。

10000回コップを手から離してどうなるかという実験を繰り返しても、10001回目にどうなるかは厳密には分からない。

10001回目に予測した(つまり、下に落ちる)ことと異なる結果が出た場合に、それまで立てていた仮説は否定される。

帰納法的認識論は、このように、「厳密に言えば、人間は経験した範囲内のことしか言えない」という限界を常に内包している。

そして、現代の科学は、この「限界」を持つ知識だけが科学的知識であると定義している。

だから、キリスト教神学や創造科学など、「神の創造や啓示を前提とした科学」を科学とは呼ばないのだ。

現代の科学は、こういったドグマを容認する科学を「似非科学」だとか「擬似科学」と呼ぶ。

しかし、帰納法的な認識論に基づく実証科学だけが「本当の科学」であるということを証明することは、その「本当の科学」そのものですらできない。

なぜならば、その「本当の科学」が「これだけが本当の科学である」という言説すらも、「仮説」に過ぎないからだ。どこまで言ってもこの「本当の科学」は、「私の科学は絶対的な知の方法です」とは言えないのだ。

「本当の科学」が自分を真正の科学であると主張し、創造科学を似非科学であると主張する事は、それゆえ、循環論であり、越権行為なのだ。

しかも、タチの悪いことに、「本当の科学」は、似非科学とか擬似科学とか自らが呼ぶものを、一段下に見ている。

定義によれば、彼らが呼ぶところの、「似非科学」や「擬似科学」は、単に、自分たちが良いと考えている認識方法と異なる方法でしかないのに、あたかも、自分たちの方法が優れているかのように誤解している。

そもそも、「俺達の方法は優れている」ということを述べた時点で、自ら自分の方法を絶対化しているのだ。

彼らがもし本当に純粋に帰納法的認識論に立つならば、創造科学や神学を見下すことはできないはずだ。

彼らが言えるのは、「ああ、あなたがたの認識方法もありかもしれませんね。」ということだけである。

それとも、彼らはやはり、「ドグマとか独善を嫌いながら、自らドグマを作り、独善になる俗物」でしかないのだろうか。

 

 

02/01/01

 

 

 

 




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