合法的な戦争

 

<ご質問>

「戦争は、正義の擁護、悪の抑制、敵の侵略に対する自国領土の防衛を目的として行われる場合に限り、償いと回復を目指す必要不可欠の行為の一つと見なされている。」と富井さんはお書きになられています。現代社会において、具体的にどのようなケースが必要不可欠な戦争もしくは武力による対抗とみなされるのでしょうか(防衛戦争の他に関して)

例えば、以下の勢力にかんしてクリスチャンはどのように防衛というものを考えるべきなのでしょうか?

(1) 共産主義国家

(2) 異教徒の国家

(3) テロリズム

 

<お答え>

共産主義国家や異教徒の国家などについては、こちらを侵略したり攻撃しない限り、相手を攻撃する必要はありません。また、日本がロシアに対して行ったように、朝鮮を併合して半島に防衛線を作るようなことをするべきでもない。朝鮮は日本の領土ではなかったわけですから。

冷戦のようにアメリカが資本主義国を団結させて、共産主義勢力と対抗するというのは、主に、国内の軍事産業のために必要だったという要素が大きくプロパガンダとそうではないものとを区別する必要があるのではないでしょうか。

テロリズムについては、明らかにこちらの秩序を破壊しようとするのですから、防衛のために方法を講じる必要があるでしょう。

その場合、国際的に警察が連携して、テロリストのあぶり出しをしたり、国際指名手配をすることも必要でしょう。

聖書において、権威は、国家、家庭、個人、教会にあると定めており、これらはどちらが上にあるとか下にあるというのではなく、互いに独立した権威を与えられています。これらの権威の上に来るのは、唯一、神の法だけです。

つまり、国家が家庭に与えられている教育の義務と権利を侵害してはならない(かつて、教育の主権は国家にあるように考えられていましたが、今日、教育学でも、『教育の私事化』が唱えられており、子供の教育は家庭の権威のもとに置かれるべきだと考えられるようになっています)。

さて、国際政治という観点から見れば、このように、各国家に主権があるというのが聖書の原則ですから、ある国家が他の国家を支配することはできない。こういった意味において、植民地化や内政干渉は原則として禁止されている。

では、ある国家において、信仰の自由が阻害されていたり、無実の人々が虐殺されている(ルワンダやブルンジにおける数十万人単位の虐殺、コソボにおけるイスラム教徒虐殺のように)など、ひどい人権抑圧が明らかな場合、他の国々は、協力して、その国家に対してそれらの政策を止めさせるように警告し、場合によっては、軍事的攻撃を加えることも必要でしょう。

あくまでも、自治権は、その国家が神の法に違反していない限りにおいて与えられているのです。神の法に著しく違反している場合に、その国家において無実の人々が犠牲になっていることが明らかで、緊急な措置が必要である場合に、国際社会には、いわゆる「戒規(discipline)」を行う責任があると言えるでしょう。

 

02/02/01

 

 

 

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