大宣教命令の4つの「すべて」

 

序論

 大宣教命令はマタイの福音書にピタリとくる結論である。マタイ伝は王としてのキリストを紹介するために書かれた福音書である。マタイ1章1節はこのように始まる、

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」この福音書の紹介文として、このことはその内容を指し示すことは明白である。マタイはダビデの子孫、メシヤなる王様としてキリストを現している。

マタイ2章2節でユダヤ人の王を探しに来た異邦の博士たちのことを見る。彼らは別の王であるヘロデを困惑させた。マタイ3章2節でバプテスマのヨハネは天の御国は近づいたと宣べ伝え、そしてメルキゼデクの位に従って祭司である王様としてキリストに油を注いだ。(ヘブル5章6〜10節)

マタイ4章8、9節においては、新しく油注がれた王にこの世の神であるサタンが戦いを挑んだ。試みの中でサタンはこの世の王国をキリストに差し出した。試みる者に対する勝利の戦いの後に、キリストは天の御国は近づいたという宣教を始められた。(マタイ4章17節)

マタイ5章においては神の律法を宣言することによって神の国の法的な機構を明らかにするためにこの王は山に登られた。この山上の説教の中でキリストは「御国が来ますように、御こころが天で行われている通り地にもなりますように」という祈りを弟子たちに教えられた。(マタイ6章10節)

マタイ13章にとぼう。キリストは王国のたとえ話を用いて御国の性質の詳しい定義と御国への期待を語られた。少しあとのマタイ21章においてはキリストはエルサレムに入城され、王として賛美を受け、預言(ゼカリヤ9章9節)を成就された。この出来事はキリストの勝利の入城として知られている。(もし、あなたがディスペンセイショナリストならばキリストの失敗した成功の試みと呼ぶことを好むかもしれない。)マタイ25章においては、裁きの日にすべての国々の裁判官として着座される王を見いだす。そこでキリストは永遠の御国に入る忠実なしもべを招かれる、(マタイ25章34節)一方、キリストの支配を拒絶した者たちは永遠の裁きに追い払われる。

マタイ27章では、キリストはご自身の王権のゆえにあざけられ(マタイ27章11、29節)「これはイエス、ユダヤ人の王」(マタイ27章37節)という罪状書の下に十字架に掛けられた。ここからキリストがご自身の王権を宣言された大宣教命令に入って行こう。はっきりとマタイは王である方を提示している。

 

すべての権威(いっさいの権威)

大宣教命令が復活のあとに与えられたということを覚えておくことはとても重要なことである。復活のすばらしさは今日の福音派の人々にはあまり歓迎されていない。彼らは「多くの冠いざささげよ」という賛美よりも「へりくだったイエスのような方はない」という賛美により神学的な嗜好を合わせる。彼らの終末論と歴史における進歩の考えはキリストの復活よりも、アダムの堕落によってよりその考えを形作っている。

復活前のキリストがよく用いられた言葉は「自分自身からは何もすることはできません。」(ヨハネ5章19節、30節、8章28節、12章49節、14章10節参照)しかし、復活後のこの場面において、キリストは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28章18節)と言われた。「与えられています」という動詞はアオリスト形の受動態である。すなわち、過去のある時点で起こった出来事としてすべての権威は授けられたと言う。「天においても、地においてもいっさいの権威」はマタイ11章25節や使徒行伝17章24節やその他の箇所で「天と地の主」と呼ばれている父なる神から授けられたのだ。

このキリストの宇宙的権威の任命は聖書の中心テーマである。使徒行伝2章30〜31節で私をディスペンセイショナリズムから解放してくれた箇所である。「彼(ダビデ)は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼は、ハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。」ここで復活における王権の任命はダビデのメシア的王座に対するものだ。確固たる勝利の期待の内にキリストは座されている。ペテロは詩篇110篇1節を使徒行伝2章34節で引用してそのことを指し示した。「ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒行伝2章34〜36節)(偶然にも詩篇110篇1節は新約聖書の中で最も頻繁に引用され、言及されている旧約聖書の箇所である。)

ローマ書1章4節は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」と語る。ここでもまた、キリストが復活の時に神の子として権威を授けられたのを見いだす。

「天と地におけるいっさいの権威」という大きなテーマはエペソ1章19〜22節でも繰り返されている。「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座につかせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」

 すべての権威がキリストに授与されることは旧約聖書の中でさえ期待されていた。このことに関して1ケ所だけ考えて見よう。

 詩篇第2篇6、7節に「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山シオンに。わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』」キリストがシオンで王として座される時、彼が生まれた時であると言われている。これはマリヤがその胎にキリストを宿したことを表しているのではない。ペテロは使徒行伝13章33、34節で私たちのためにこのメシア的表現を解説している。「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされた。詩篇の第2篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と書いてあるとおりです。神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える。』というように言われました。」詩篇第2篇8節によるとこの死から生まれたということはキリストが国々を相続されることへとつながる。「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」

 それでは、この「すべての権威」の授与の性質はなんであろうか。この「すべての」という言葉は個別的というニュアンスで用いられている。すなわち、権威の「すべての種類」、すべての分野における権威を指し示している。キリストは天(霊的分野)と地(地上の分野)のすべての種類の権威を所有しておられるのだ。キリストはただ、教会と贖われた個人個人にたいしてだけ権威を主張されるのではない。家族に、教育に、ビジネスに、政治に、法律に、医学に、生活の全領域に権威を主張される。

 「天地におけるすべての権威」はすでに示しましたマタイ11章25節(「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。」)における神の権威を反映する。神の権威が制限される分野があるだろうかとわたしたちは自問自答しなければならない。あきらかにそのような領域はないのだ。なぜなら、「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものだ。」(詩篇24:1)とあるからである。あなたがイエスを主と告白する時、自分の個人的霊的な生活にだけキリストの主権を認めると言っているのではないのだ。あなたやだれか他の人が「地上」ということばの意味をどのように理解しようと、あなたは人生と生活のすべての領域にキリストの主権を断言しているのだ。ほんとうにこれは大命令なのだ。

 

すべての国々(あらゆる国々)

 福音は「ユダヤ人をはじめ」(ローマ1:16)・・・キリストは「ご自分の国に来られた」(ヨハネ1:11)・・・キリストは弟子たちを基本的には「イスラエルの滅びた羊たち」(マタイ10:6)のところに遣わされたけれども、マタイはすべての人々を治める方としてのメシア的王としてはっきりと説いている。

 マタイの福音書はキリストの王権について語る福音書である。興味深いことに、両親の他に最初にキリストに興味をいだいたのはユダヤ人ではないマギたち(マタイ2:1)であった。バプテスマのヨハネが「天の御国は近づいた」と宣教した時、彼はユダヤ人たちを叱責し、来る破滅を警告した。(マタイ3:7〜10)

 マタイ4章8、9節において、サタンはキリストの最終目的を理解し、「この世の国々」をキリストに明け渡す時に、非合法な土台の上でその目的を成就させようと試みた。マタイ4章15、16節では公生涯の中で成就したと語られた預言はイザヤ書9章1、2節です。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

 マタイ8章10〜12節には「イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されて、そこで泣いて歯ぎしりするのです。』」と書かれている。

 マタイ13章38節は天の御国はイスラエルだけではなく、「世界」が含まれていると表現されている。この世界の王国は復活とイスラエルだけではなく、すべての人々の裁きをもって終わる。だから、マタイ28章で主はすべての国々を弟子とし、バプテスマを授けよと弟子たちを任命されるのだ。

 「すべての権威」を持つという時、私たちが「すべての国々」の重要性の意味を把握することはとても大切なことである。「国々」という言葉はギリシャ語のエスノである。ギリシャ語のエソスから来ている。それは人々の習慣や風習、すなわち文化的つながりを表している言葉である。だから、エスノスは文化を形成する社会的つながりによって集められた人々の集合体を言う。

 ここでのエスノスは単に「異邦人」という意味ではない。ユダヤ人自身新約聖書において10回もエスノスと呼ばれています。(ルカ7:5、ヨハネ11:48、使徒行伝10:22)この言葉は文化的つながりのあるグループとしての人々を指しているので、ユダヤ人もユダヤ人以外の人々も含まれる。キリストが「すべての国々」と言われた時、人々のすべての文化のことを言われた。そして、文化的つながりの中にある人々のことを言われたのだ。

 主が「すべての人々(アンスロポス)を弟子としなさい」と言われなかったことを理解することはとても大切である。もしキリストが個人にだけ興味を持たれたならば、道に迷った個人だけに関心を持たれたことになる。また、純粋に政治にしか興味がないかのように「すべての王国(バシレイア)を弟子としなさい」とも命じられなかった。「すべての国々」を弟子とせよという命令はすべての文化における営みをする人類を回心させ、弟子とせよと語られている。それはまた、個人的また霊的な領域の深みから始まるものだ。しかし、それは同様に社会的、法的、教育的、経済的、そして政治的な生活のすべての分野を含んで広がっていく。

 ですから、私たちはどれほど大宣教命令が文化命令と対をなしているかを理解することができる。命令の中でキリストはすべての人々、すべての国々を贖う計画を実行し始めておられる。命令は教会が「火から燃え木を拾い上げる」ようには計画されていない。文化的集合体としてのすべての関係の内にある人々の救いを探求している。大宣教命令は文化的含みをもっているだけではなく、贖われた文化を創造する。

 私たちが「キリストはわたしの個人的な救い主です。」と言う時、注意が必要である。偶像崇拝者はどこに出かけるにも持ち運びができるのでしばしば「個人的救い主」を持っている。彼らの神々には制限がある。確かに、キリストは私の救い主である。キリストは個人としての私をとても親密に愛してくださる。しかし、歴史において、非常に頻繁にクリスチャンはキリストが個人個人にひかえめに分配されるかのような意味を含んだ傾向にその言葉を用いた。

 ですから、聖書にはしばしば、キリストが「世界の救い主」と書かれている。このように書かれているからと言ってユニバーサリズムの教義を唱導するのではない。永遠に地獄に住まう人々がいる。むしろそれは、コスモスとして、また機構としての世界が徐々に現実の回心へと向かうということを示している。み言葉はそれゆえ、世界の隅々にいたる救いをはっきりと描写している。み言葉はたんに、大多数の人々はキリストを拒むけれども、「キリストは世界の唯一の救い主である。」と言っているのではない。

 み言葉に用いられている強力な贖いの用語を考えてみよう。ヨハネ1章29節「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊!』」 ヨハネ3章17節「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」  ヨハネ2章2節「この方こそ、私たちの罪のための、−私たちの罪だけでなく全世界のための、−なだめの供え物なのです。」 ローマ11章15節「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」  コリント5章19節「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。」

 本当に、キリストはいつか贖われた世界を見ることを期待しておられる。世界は救われ、人々の罪は贖われ、人類は神と和解する。たしかにキリストはこの努めを遂行するようにと命じておられる。私たちが「すべての国々」を弟子とするならば人々や物事の機構であるコスモスとしての世界はキリスト教化されるのだ。

 旧約聖書でさえこのことを期待していたのではないだろうか。 イザヤ9章6〜7節は世界を支配するように召された者の誕生を指し示している。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、裁きと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」

 詩篇2篇7〜8節はすべての国々を弟子としなさいというキリストのご命令にとてもよく合っている。「主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょうわたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」

 ダニエル7章13〜14節は復活に続く昇天について語っている。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄光と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語のものたちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

 それゆえに、新約聖書において私たちはキリストがすべての国々の、全世界の救い主になられるべきであることを知る。彼は現に、終わりまで支配される王の王、主の主なのだ。黙示録1章5節に「イエスキリストは忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者である。」と書かれている。

 キリストが実際にすべての国々が弟子とされるのを求めておられることはこのように明らかである。三位一体の神の権威のくびきのもとに人々は導かれるべきなのだ。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け・・・」(マタイ28:19)バプテスマを授けよという命令の中にある「彼ら」という複数形はギリシャ語のたったひとつの単語によって切り離されている「国々」という複数形の名詞を指す。そして、バプテスマは信者とその子孫であるキリストの王国の支配のもとにいる人々にだけ与えられる。

 

すべてのこと

 弟子訓練という考えはキリスト教信仰による訓練を意味する。ギリシャ語の言葉マセテウオーは奉仕のために人々を訓練するために権威を用いるということを意味している。大宣教命令において訓練は明確に贖いを方向づけている、なぜなら訓練は三位一体の神の名前によるバプテスマを含んでいるからである。それは単なる人道主義であはないし、社会的福音でもない。

 大宣教命令はすべての国々に証し人となることを語っているだけではない。それならば、マーチュレオーが使われるだろう。また、すべての国々に福音を宣べ伝えるだけでもない。そうならばケリュッソーが使われるだろう。私たちは事実、訓練すなわちすべての国々を訓練し、キリストのくびきのもとに連れて来なければならない。

 ディスペンセイショナリストたちはしばしばこのことの意味を取り違えている。チャールズ・フェインバーグは「新約聖書においてこの恵みの時代に神がキリストの体のメンバー、すなわち教会を用いて地上のすべてにわたって証人となるということほどはっきりした教えはない。」と書いている。そして彼はマタイ28章18〜20節を引用する。主が用いられた言葉は命令を矮小化することを許さない。それはまた、すべての国々に対する大宣教命令が個人個人に対する大提案に成り下がることを許さない。

 確かにこれは伝道を必要とする。伝道はクリスチャンの弟子訓練の絶対に重要な、また本質的な出発点である。罪人のこころの中のイエス・キリストの救いの恵みから離れては「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばすことはできません。」(ローマ8:7〜8) 

主ははっきりと「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれた。」(ヨハネ1:12〜13)と教えられた。主はまた、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と私たちに語られる。

 私たちは失われた人々に届いて行くこととイエスキリストの救いの福音を提示することに従事すべきである。歴史的正統的キリスト教は神との正しい関係という人間の根本的必要を理解する。そしてこれはキリストがもたらされた超自然的救いから離れては得ることができない。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエスキリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」(ローマ5:1、2)

 しかし、ディスペンセイショナリストたちが考えているようにそこで止まるのではない。大教会を牧会するファンダメンタリストのジャック・ハイルズは大宣教命令についてこのように書いている。「4つの基本的動詞に注意しなさい。 行く。 宣べ伝える。 バプテスマを授ける。 それらを再び教える。あなたが人々を救いに導き、バプテスマを授けたら何かを彼らに教えます。何を教えるのでしょうか?『わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことをまもるように』さて何をイエスは私たちに命じられたのでしょうか?それは、行って、宣べ伝えて、バプテスマを授けて、イエスが私たちにするようにと命じられたことを教えるということです。ですから、私たちは行って、宣べ伝えて、バプテスマを授けることを教えるのです。そうすれば彼らも彼らが導いた人々に行って、宣べ伝えて、バプテスマを授けることを教えるでしょう。」

 主は私たちが「私があなたがたに命じたすべてのことを守るように彼らに教える」べきであると命じられた。(マタイ28:20)そして、キリストはご自身の教えを地獄からの個人的な救いのメッセージに制限されなかったことは明白なことである。イエスは弟子たちをすべての真理に導くと約束された。(ヨハネ16:13)だから弟子たちが教えたことはイエスが彼らに教えられたことであった。弟子たちも教えを個人の救いに限定しなかった。そうでないならば、福音書も新約聖書全体ももっともっと短かったであろう。

 イエスの最初の大切な教えである山上の説教の中で、私たちは神の律法を主がもう一度肯定しておられることを読むことができる。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17)パウロはローマ書で「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と述べている。確かに神の律法はただ単に個人の救いに制限されえない。それゆえ、このことはキリストが教えられた「すべてのこと」の一重要事項である。それゆえに、私たちの弟子訓練は神の律法をも同様に含めるべきである。

 私たちが新約聖書を読む時、キリストと使徒たちの教えの広さを発見する。それは世界と同じぐらい広い。キリストが個人個人の罪の救いのために来られたのは確かである。しかし、すでに述べたようにキリストは人間とすべての物事のすべてのシステムである「世界」の救いのためにも来られた。だから、キリストと使徒たちの教えは世界と人生におよぶ広さである。新約聖書はクリスチャンの社会的責任と参加を進める。 

 もちろん、すべてのクリスチャンは新約聖書は結婚と離婚(マタイ5:27〜32)、家族関係(エペソ5:22〜33)、子どもの養育(コロサイ3:21)について語っている。しかし、それとともに富める者の貧しい者への義務(マタイ25:31〜46)、雇い主と雇い人との関係(エペソ6:5〜9)、正しい支払い(ルカ10:17)、自由市場での契約(マタイ20:1〜15)、私有財産の権利(使徒行伝5:4)、敬虔な市民生活と国家の正しい機構(マタイ22:21)、福祉の基本的機構としての家族( テモテ5:8)、正しいお金の用い方(マタイ15:14)、借金の危険性(ローマ13:8)、財産投資の道徳(マタイ25:14〜30)、遺産相続に関する責任( コリント12:14)、犯罪にたいする刑罰的抑制(ローマ13:4)、訴訟( コリント6:1〜8)、などに関しても指示を与えている。このことによって、新約聖書は社会文化的な旧約聖書の事柄を熟考し、補っている。神の民がたんに個人の内面や、家族や教会での生活だけではなくキリストの権威のもとに生活の全領域に生きることを主張する。このゆえに、命令は「私があなたがたに命じたすべてのことを守るように」というものなのだ。

このようなわけで、クリスチャンの弟子訓練のプログラムは私たちをすべての良い働きのために整える(2テモテ3:17)神の言葉のすべてを教えなければならない。キリストの弟子は暗闇の業をあばく(エペソ5:11)ために従事するべきである。弟子はけん責によって反対することがらに立ち向かうべきであるばかりではなく、真理なる方とともに挑戦することと生の全領域を積極的に再建することによって反対することがらにとって変わるべきである。「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる。」( コリント10:4〜5)ですからパウロが言うように、「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、こころの一新によって自分を変えなさい。」なのです。

 

すべての日々(いつも)

 大宣教命令は真実に大宣教命令を説いている。大宣教命令は幅広い分野のプログラム、世界の刷新への召命というプログラムを制定する。キリストは彼が教えたすべてのことによってすべての国々を弟子化することを命じておられる。キリストはキリストの民に三位一体の神の贖いの主権のもとにすべての人々、またその活動を連れ戻す務めを与えられた。

 どのようにしてそのような計画が成就するのであろうか。もちろん、キリストは一夜にして起こるということを期待しておられない。福音派教会の大多数はキリストが天に昇られて以来ずっと、歴史の終わりにおけるキリストの再臨は差し迫っていると教えている。ハル・リンゼイのような有名な神学者の「私たちはあまりながく地上に暮らすことを期待しない人々のように生活しつづけるべきである。」という標準によって彼らは生活している。もし人がもうすぐ世界の終わりが来ると信じているならば、だれが世界を刷新するという長期的で、お金がかかり、困難で、時間を浪費するような務めを引き受けるだろうか。

 しかし、大宣教命令に使われている言葉は確かに歴史における長期戦を意味している。キリストは文字通り「私はいつもあなたがたとともにいます。」と言われる。「今にもあなたの働きを終わらせるために再臨するのを期待しなさい。」とは言われなかった。ちょうど先に述べた3つの「すべて」が十分に理解されるように、神の民に対する主の臨在の継続の宣言は務めの完成を保証する。

 どれくらいキリストの権威は広範囲なのか?それは「天においても地においてもいっさいの権威」と言うぐらいにわたる。その働きはどれほど適用されるのか?「あらゆる国々」を弟子とすることである。その訓練はどこまで詳細であるのか?「キリストが教えられた『すべてのこと』にまで及ぶ。キリストの弟子たちに残された時間はどれほどなのか?キリストは「たぶん私は明日戻ってくるであろう。」とは言われなかった。むしろ、キリストは未来の長期的展望を語るように宣言された、「あなたの前に引き伸ばされたとても永い年月のすべての日々を通じてあなたと共にいる。」

 キリストは再臨の前に長期間あることを期待するようにと教えられなかっただろうか?10人の乙女たちのたとえの中でキリストは「花婿が来るのが遅れたので、また、うとうとして眠り始めた。」(マタイ25:5)と警告された。タラントのたとえの中では「よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。」(マタイ25:19)と警告された。

 クリスチャンである私たちは子どもたちや伝道を通して救われた人々が深く穴を掘っていくように訓練しなければならない。今世紀私たちは世俗主義者たちが「ヒューマニズムの勝利」と呼んでいる出来事を見ている。また同時に今世紀、以前に広がっていたクリスチャンの文化的貢献を効果的に取り除いた、ディスペンセイションの差し迫った再臨の教えの勝利を見て来た。非常に多くのクリスチャンがすぐにも起こるキリストの再臨を待つために文化から退却してきた。私はディスペンセイション神学の勝利はヒューマニズムの勝利と部分的に関係していると思っている。

 私たちの前にある務めは莫大である。しかし備えは整っている。すべての権威をお持ちのお方が私たちに命じておられる。キリストはすべての日々を私たちに与えてくださった。そして「あなたがたとともにいる。」と約束してくださっている。ギリシャ語でのこの宣言は「私、私があなたがたとともにいる。」という強調を表している。

 私たちは長期においての成功の確信を抱いても良いのだ。キリスト、そうキリストが私たちと一緒にいてくださる。旧約の預言者たちも、新約の使徒たちも、栄光の主ご自身も「川から地の果てにいたるまで」のすべての国々がキリストのもとに来て、膝をかがめるという地上における将来の栄光の日々を期待している。そして、キリストの管理のもとに務めが達成されるために神の民を用いられる。

 大宣教命令はマジョリティーテキストにおいては「アーメン」ということばを持って、適切な終わり方をしている。アーメンというのは「そのようであれ!」という意味である。

 

 

 

(大宣教命令の4つの「すべて」は“The Four Alls of the Great Commission" by Rev.Kenneth L. Gentry, Jr., Th.D. の翻訳です。翻訳はDr.Kenneth Gentry許可をいただいております。翻訳者:谷口明法)




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