ハーザー誌奥山師の記事に対する応答(2)

 

<O師>

 さて、問題の「後千年王国説」(ポスト・ミレ)であるが、その主張は、千年王国とは、「主イエス・キリストの初臨と、(もっと詳しく言えば、オーガスチンは十字架ににおいてサタンを征服して縄目につないだ時からと言う。もちろん他の説もある。種々矛盾を生じたので)と再臨の間の期間のことで、つまり、今が千年王国なのである」と言うもの(ただし、これは「本来のポスト・ミレ」今は矛盾をカバーするため諸説ある)。もう一度ゆっくり読んでいただきたい。度肝を抜かれたことであろう。

「何だって、今が千年王国?」 と多くの読者方は驚かれたであろう。

 というのは、読者方の多くは、聖書を「文字通り」信じているので、この「千年期」は、「サタンが縛られて」、「諸国の民を惑わすことがない」全き平和の時と信じているからである。(黙示録二〇・1〜3)

 今の地上は、サタンが縛られているどころか、大暴れして、コソボ(これはクリスチャンがイスラムを殺している。セルビア人はギリシャ正教であり、アルバニア人はイスラムだから)、をはじめとする民族と民族の殺し合い、ナチスのユダヤ人大虐殺、スターリンの大虐殺、中国系共産党ポルポトの大虐殺、少し歴史を遡っただけでも、宗教改革後のカトリックとプロテスタントの血で血を洗う殺し合い、終わることのない国と国との戦争、宗教改革前のカトリックの堕落、法王と皇帝の醜悪な主導権闘争、――などなど、この世の悪を数え上げたら、紙とインクの方が先に尽きてしまうであろう。(一般的に、ポスト・ミレの人たちは、この矛盾を「良い麦と毒麦」の誓えで説明する。それにしても戦争と虐殺で覆われた千年王国を信じている他はない。またオーガスチンの主張は、第二コリント四章四節と矛盾する。縛られたはずのサタンが、なおも活動しているからである。そこで何とか神学でサタンを縛るため、コンスタンチヌス帝の回心の時、サタンは縛られた、という主張もある。またオーガスチンの主張はルカ十一章二〇節とも矛盾する。――後で詳述)

それを「千年王国」と言っているのが、ポスト・ミレの神学者たちなのだ。

 

<T>

「何だって、今が千年王国?」 とO師は驚かれるかもしれないが、しかし、「何だって、今が千年王国じゃないって?」と我々は驚く。

聖書に忠実な解釈を試みると言いながら、プレ・ミレの人々は、聖書を文字通り信じない。

というのも、聖書では、繰り返して、現在、キリストが王であると述べているからである。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28・18)。
「キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます」(1ペテロ3・22)。

 

何故プレ・ミレの人々は、キリストが王であることを文字通り信じないのか?

また、なぜクリスチャンもキリストとともに王であることを文字通り信じないのか?

 

「しかし、あなたがたは、…王である祭司…です。」(第1ペテロ2・9)
「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2・6)
「イエス・キリストは…私たちを王とし…てくださった方である。」(黙示録1・5-6;キング・ジェームズ訳)

 

現在、我々が住んでいる世界は、キリストの王国である。そして、我々クリスチャンは、キリストとともに王である。聖書からこのような真理をはっきり示されながら、なぜ、プレ・ミレの人々は、聖書を文字通り解釈せず、「現在がキリストの王国だって?」というのだろうか。それは、感情や主観に頼っているからである。

彼らはすぐに、「皆さん、こんなに悲惨な出来事が起こっている現在の世界がキリストの王国であり、我々が王であるなんて信じられますか?そんなことを信じているポスト・ミレは『頭がおかしいんじゃないの』と言いたくなりませんか?」と言う。

キリストとクリスチャンが王であり、この世界が神の国であることを聖書から信じる人間を「頭がおかしい」とののしる人間は、そのように宣言しておられる神を「頭がおかしい」とののしっている。

「いやいや、私はキリストやクリスチャンが王であることや、現在の世界が神の王国であることを否定しません。ただ、黙示録が示している千年王国はまったく別のものだと思うのです。」と言われるかもしれない。

しかし、それでは、現在の世界とそのプレ・ミレが言うところの世界とはどのように違うのか。

同じキリストが王なのではないか。

同じクリスチャンがキリストとともに王座に座っているのではないか。

同じようにそれはキリストの王国なのではないか。

現在の世界はキリストの王国であり、来るべき千年王国もキリストの王国である。どこがどう違うのか。

「来るべき千年王国は、まず第一の復活があって、それから来るものだから…。」と言うだろうか。もっとも、師は、「彼らの主張は第一の復活は新生のことだと言う。『そんな無茶な』と読者方はいよいよあきれ果てることだろう。」と言っておられる。

しかし、こちらのほうがあきれ果てる。

プレ・ミレは、新生を復活と認めないのだろうか。正統的教会が歴史的に信じてきた、新生=復活の教理をプレ・ミレは否定するのだろうか。プレ・ミレは、聖書がはっきりと述べていることを否定するのだろうか。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを…キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2・4-6)
 

「ともによみがえらせ」は過去形である。すでに我々はよみがえっているのだ、とパウロは述べている。さらに、

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」(コロサイ2・12)
 

ここでも、パウロは、クリスチャンはすでによみがえっていると述べている。つまり、パウロは、新生を、魂におけるよみがえりであると主張している。クリスチャンは、バプテスマによって、第一の復活にあずかり、新しい人となった(ローマ6・4)。クリスチャンは、「罪に死に、そして、キリストのゆえに義に生きた者」(ローマ6・11)となった。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされているからです。」(第1コリント15・20−22)

キリストにあって、我々は復活した。「キリストによってすべての人が生かされている」。

これを、黙示録20章の第一の復活と考えて、なぜ「無茶」なのか。新生はそんなに軽いものなのか。第一の復活を「魂の復活」と考えることは聖書全体からみてそんなに不合理なのか。

パウロは、我々がキリストを信じたことを「新しい創造」であり、「すべてが新しくなった」とすら述べているではないか。

歴史的に教会は、二度の復活を、「キリストを信じたときに起こる新生」と「再臨のときに起こる肉体の復活」と信じてきた。

第一の復活を将来にしか起こらないと考えるのは、キリストの御言葉と明らかに矛盾している。

「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。『今が』その時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5・24−25)

第一の復活は、「今」起こる。

これでも、千年王国は現在のキリストの王国とは別物だといえるだろうか。読者はよく考えてみていただきたい。

 

 

 

 




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