ハーザー誌を憂慮する

 

 ハーザー誌の来月号の「巻頭言」に次の文章が載ります。

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キリスト教植民地主義
 
 キリスト教の植民地主義(征服・略奪・虐殺主義という言葉に変えた方が真実が伝わる)や侵略主義的キリスト教はもう過去のものだと思っていたら、仮面を被って日本のキリスト教界に大手を振って歩いていた。彼らはいま、日本の文化伝統を滅ぼそうと躍起になっており、インディオ(南米)やインディアン(北米)を、「偶像礼拝の民は畜生以下である」「キリストが王であるから王はいらない」と、かの地の民族・国王を抹殺した同じ論理で日本の天皇(制)を狙い、着々と日本征服を進めている。
 日本征服のパターンはかつてのキリスト教徒が、福音宣教をせずに、創造主なる神を礼拝していないという理由だけで、原住民を虐殺・征服したのと変わりがない。
 さて、一九九九年の一〇月、第三世界宣教団体協議会機構〈TWMA、奥山実委員長)が主催する世界宣教会議が京都で行われ、京都宣言が出された。この会議の意義は大きいが、それを知るには当社から出版された『世界宣教会議・記録集」を見るのが手っ取り早いし、京都宣言も資料として収録されている。
 この世界宣教会議の特徴は何と言っても、第三世界、つまりアジア、アフリカ、南米の宣教団体、自由教師が主催する世界宣教会議であったことだ。なぜ、このような気運が盛り上がったかというと、すでに欧米の宣教師より、第三世界の宣教師の数が上回ったいうと事実に裏付けられている。この事実が奇跡的なことなのだ。なぜかというと、アジアを例にとって見ると、かつては欧米の植民地であったが、約一〇〇年前の日露戦争、約五〇年前の大東亜戦争(この呼称が正しい)がこの欧米の植民地主義に終止符を打ったからだ。だから五〇年から一〇○にも満たない歴史のなかで、つまり植民地主義が終わってから、急速にリバイバルが興った。
 中国では毛沢東革命が起こって、当時六千人と数えられた西欧の宣教師がすべて国外追放されたら、大リバイバルが迫害下で興った。これほどの皮肉があるであろうか。
 つまり、第三世界のクリスチャンが、世界宣教会議を開いたのは、世界宣教を今度は(もう欧米には任せておけない)「俺たちがやるぜ!」という無言の欧米に対する宣言なのだ。この世界の中には堕落したかつてのキリスト教国が含まれることはいうまでもない。
 その京都宣言(記録集の資料に収録)の「第三千年期における世界宣教の新たな諸相」という項目のなかで、一〇の移行をたどる必要があると書かれているが、重要な最初の三つは、
 @征服の宣教から愛と希望の宣教へ
 A植民地主義から平和と和解の宣教へ
 B文化的移植から文脈化へ
 【注、ここで文脈化と訳された言葉はコンテクスチアラセーッション宣教における文化適応」のことである】
 また、基調メッセージではデイビット・J・チョー博士が「脱植民地主義・脱西洋」という言葉を盛んに使っている。
 これを記録集が出版された二〇〇〇年の二月に読んだときは、ピンと来なかったのであるが、最近、天皇問題を論じるようになってやっと解ってきた。
 何が解ってきたかというと、植民地・征服主義である西洋キリスト教の本質である。
そして日本に入って来たキリスト教もその類なのだ。
 いま、世界宣教では、常識的なことが日本では非常識である。文化には上下貴賎はなく、その文化を尊重して、宣教していく「コンテクスチアライゼーション」という言葉はすでに常識であり、京都宣言にも書かれ、ラルフ・ウインター、デイビット・ヘセルグレーブ、ポール・シダー(いずれも世界宣教会議の講師)というそうそうたるアメリカの宣教学者はこれを支持している。
 古色蒼然たる改革派神学の「文化命令」は今や意味をなさない(本誌五月号七五頁から七七頁、奥山論文参照)。
 いまだに西洋のキリスト教をやっている人の言いぐさは「天皇制はキリストの王国のすり替えだ」というのだが、キリストは日本の主になるわけではない。再臨の主はイスラエルの王となるので、だから「王の王、主の主」と崇められる。
諸国の民が仮庵の祭りのときにイスラエルに上ってくる(ゼカリア書というのはその情景を現している。たくさんの王が他にいるから「王の王」と呼ばれる。メシアが世界政府の盟主としてやってくるというのはニューエイジ思想であって、断じてキリスト教ではない。再臨のメシアであるキリストはイスラエルの王となるのだ。
 キリストが王であるなら日本に王(天皇)がいらないというのは、まったくの「すり替え」理論である。

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 西欧の宣教を「略奪・虐殺」と見るのは、明らかに初歩的なミスであり、教会史・宣教史に対する無知をさらけ出しています。

 ウィリアム・ケアリやジョン・ペートンの伝道を見れば、このような西欧宣教観がいかに偏向しているかは、一目瞭然です。

 

 インドの酷暑の中、自分の奥さんが発狂し、隣の部屋で縛り付けられ、わめき散らす中で、聖書をインドの諸語に翻訳し、教育施設を建て、現地の人々のために自分を犠牲にして戦ったケアリや、仲間が次々と殺されていく修羅場の中で、南洋の小さな島でキリストの福音を伝えつづけたペートンの血と汗と涙の戦いを、このような形で愚弄するのは絶対に許されるものではありません。

 略奪や虐殺をしたコルテス・ピサロの軍隊をキリスト教と同一視するのは、歴史をあまりにも単純化しすぎます。彼らは、はたしてキリストの福音を伝えようとしたのでしょうか?キリストの福音を伝える者が人を殺しますか?むしろ、南米に渡ったアメリカ人の宣教師たちは、原住民に襲いかかられたときに、けっして銃を彼らに向けず、空に向って発砲し続けながら殺されていったのです。その後に、その部族全体は彼らの姿に打たれてキリスト教に改宗したのです。このような無私の愛による宣教の話をハーザー誌は知らないのでしょうか。

 改革派の「文化命令」は、改革派だけではなく、プロテスタント・キリスト教の基本です。

 文化命令は、けっして諸民族の文化を破壊するためにあるのではなく、諸民族がそれぞれの個性を活かし、神に奉仕するように整えることを教えているのです。

 文化に貴賎はない、というのはまったくの誤解です。

 なぜならば、文化には、首狩り族の文化もあれば、高度な科学技術を築いたキリスト教文化もあるのです。

 文化は、神の法にしたがって、価値を決定しなければなりません。

 十戒を破る文化は劣っているのであり、十戒を守る文化は優れているのです。

 もし、どのような文化であっても、同等の価値を持つということになれば、そのクリスチャンはキリストを否定しているのです。

 なぜならば、キリストは「全世界の諸国民を弟子としなさい。彼らに、わたしが命じたすべてのことを守るように教えなさい。」と言われました。敵兵の首を狩り、捕虜の顎や心臓を生きたまま切り取るような未開の部族の文化を肯定することは、キリストの命令「汝の敵を愛せよ」に違反する重大な罪です。 

 もちろん、ご飯を食べるときにスプーンを使うか、箸を使うかに優劣はありません。なぜならば、それらは十戒に抵触するものではないからです。このような善でも悪でもない事柄において、宣教はそれぞれの民族の文化を尊重すべきです。しかし、十戒に抵触するような事柄までも受け入れるように指導するならば、それは、キリスト教の堕落であります。

 私たちは、現代の「世俗文化人類学」を無批判に受け入れてはならないのです。

 ノンクリスチャンの学問には、神の基準がありません。だから、それらをチェックなしにキリスト教に取り入れるならば、キリスト教は相対主義というサタンの罠にはまってしまうのです。

 こういったトンデモない意見が堂々とキリスト教の雑誌に載るということは、日本のキリスト教にとって大きな悲劇といわざるをえません。心ある人々は、このような見解に眉をひそめるでしょう。しかし、彼らの悪意のある西欧宣教批判に影響される人々もいるかもしれません。

 私たちは、人々に真理を知らせるために、このような謬説と断固として戦わねばなりません。

 いや、むしろ、このような編集者の発言によって、ハーザー誌そのものの販売部数が極端に落ち込むことは避けられないでしょう。

 ハーザー誌が、真理に逆らい、謬説を固持することによって、カルトの道を歩みつつあることを大変残念に思います。

 皆様のご意見を伺えれば幸いに存じます。

 

 

 

 

 




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