契約の箱の今日的意義について

 

<ご質問>
先生の「現代において、契約の箱に意味はあるのか?」を読ませて頂きました。言われている事は正しいと思います。しかし、アークが考古学的、古物愛好的意味以外のいかなる意味も無いのだとしたら、最初から神はアークを制作させる必要はないと思います。聖書に失われた十部族の回復や帰還に言及している箇所はほとんどありません。ですが、十二部族のうち十部族がアークと共に失われてから、聖書は彼らが滅びたとは言っていない。そのため何らかの理由で時が満ちるまで、アークと十部族はどこかに封印されていて、彼らには重要な使命が与えられているとは考えられないのでしょうか?

<お答え>
神が契約の箱を作られたのは、神の御国の霊的な意味を実物教育するためです。そして、この務めは、旧約時代において十分に果たしたのです。それゆえ、契約の箱の存在意義はあったのです。
しかし、新約時代において、パウロが述べたように、キリストが真の聖所に入られて、1回限りのあがないを成し遂げられたので、神殿や聖所や契約の箱は、型としての役割を終わりました。
もし契約の箱に神学的意味がまだ残っているならば、神殿の様々な器具や幕屋の構成物すべてにも意味が残っていると考えなければ一貫性がありません。
つまり、犠牲の動物、祭司、聖所と至聖所を隔てる幕などもまだ意味があるということになります。契約の箱だけが意味を持つと考えることはできません。
となると、キリストの十字架の際に、神殿の幕が真っ二つに裂けたのは意味がないということになってしまいます。幕にはケルビムが織り込まれており、人間と神とを隔てる番人の役を果たしていました。これは、エデンの園に堕落した人間が入れないようにケルビムが番をしていたのと同じです。
キリストの贖いによって、今や、人間は自由に至聖所に入って神との交わりを持つことができます。
旧約聖書の様々な型を復活させる考えは、キリストの贖いの『完結性』を否定することにつながるので、非常に危険なのです。
神学的な意味と、考古学的意味をしっかりと分ける必要があるのです。

また、ユダヤ人については、失われた十部族を含めて、未だに存在意義があるとはっきり聖書は語っています(ローマ11章)。これは、旧約聖書の秩序を復活させるためではなく、人類が一つになるという意味において重要なのです。
すなわち、ユダヤ人が退けられたのは、異邦人に救いが行くためでした。これは、神が血によって人間を偏り見る御方ではない証拠です。もしユダヤ人が福音を伝えて、そのままパウロの時代よりずっと主役を務めてきたのであれば、神の御国は血や人間的優越によると考えられますが、実際は、そうではありません。生まれは関係ないのです。神は、自由に御自分が選んだ人を用いて仕事をさせます。家柄や血統や学歴や教養などは関係ないのです。
あくまでも、救いに関わることは、神の自由な決定によるということを示すために、神はユダヤ人を退けられておられるのです。
ユダヤ人が選ばれたのは、強い民族だからとか優秀な民族だから、という理由は何もありませんでした。ユダヤ人は、「取るに足りない」民族だったのです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」(申命記7・7)

クリスチャンが選ばれたのも、クリスチャン自身に何かよいものがあったからではなく、「無価値なものを通して、すぐれた者を辱めるため」なのです。

「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(1コリント1・28)

今日、ユダヤ人の救いに関わる団体や人々は、ユダヤ人を特別に扱い、「ユダヤ人礼拝」の様相すら呈していますが、そのような特別視をすべきではありません。プレ・ミレは、旧約時代の礼拝制度や民族的経綸が復活すると述べますが、まったくの間違いです。ユダヤ人クリスチャンが
ディスペンセーショナリズムのプレ・ミレによって誘惑され、自分を何か特別な者、すぐれた者と思わないことを願うものです。
ユダヤ人が神に立ちかえる時は、へりくだった時だけです。神の家族は、へりくだった者たちの集まりだからです。

「謙遜な者は幸いです。地を相続するからです。」

 

 

02/04/04

 

 

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