高等批評について等

 

>ところで、アレクサンドリア写本を元本とするようになったのも、高等批評の影響が

>あるのでしょうか?

 高等批評の影響もあると思います。

 ご存知のように、これは、認識論の問題が根底にあると思います。

 本当のクリスチャンは、認識の基礎を神に置きます。

 「神がこう言われたのだから正しい。」と言います。

 しかし、偽のクリスチャンは、認識の基礎を人間に置きます。

 「人間の理性(科学)によって証明されたのだから正しい。」と。

 聖書は、「人間の理性は堕落によってゆがんでおり、ものごとを正しく見れない」と言って、理性信仰(つまり、「人間理性とはあらゆるものを判断できる至上の判断主体である」という信仰)を否定します。

 「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その『知性』と良心までも汚れています。 」(テトス1・15)

 「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。 」(エペソ 4・18)

 「また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。 」(2テモテ3・8)

 このように聖書は、再生されていない(生まれ変わっていない)知性を「汚れたもの」としているのですから、クリスチャンが、ノンクリスチャンの教えをそのまま無批判に受け取ることはできません。

 

 本当のクリスチャンは、「神は、人間が自分の知恵に頼らず、御言葉にしたがって生活することを望んでおられる」と信じますし、「そのような生活を導く基準として聖書を与えてくださった」と信じています。

 しかし、高等批評を信じる人々は、「神は、クリスチャンを真理に導いてこられたかどうかは不明である」と述べて、「神の善意」を否定します。それゆえ、彼らは、神が教会に教えてこられた歴史的・正統的な信条を無視して、聖書を純粋に科学的(つまり、理性至上主義的)に調べます。

 「人間理性こそ万物を測る尺度である」という啓蒙主義の影響を受けた近現代人は、

    「信仰→色眼鏡→誤謬」

    「科学→公平・中立→真理」

 という図式を頭に叩き込まれているので、後者のほうが正しいと考え、聖書を科学によって批評できるという意見に賛同します。

 クリスチャンすらも、このように「ノンクリスチャンの汚れた知性」に全権を与えて、彼らの指導にしたがい、高等批評を受け入れてしまいました。「世の光=ノンクリスチャンを指導する者」であるはずのクリスチャンが、ノンクリスチャンに指導権を明渡してしまったのです!

 そのため、クリスチャンには、次の大きな足かせがはめられることになりました。

 (1)聖書に対する信仰欠如

  高等批評を受け入れて、聖書に対する純粋な信仰が失われました。

  アブラハムはウルの町を知らなかったとか、イザヤは3人いたとか、モーセ5書を書いたのはモーセではなかった、とか、似非歴史的証拠によって、クリスチャンの信仰はズタズタに引き裂かれ、単純に聖書の御言葉に頼ることができなくなりました。

 (2)異端的教義の侵入

   高等批評によって、「人間の思想を判断するための唯一の基準は聖書である」という伝統的な教会の立場は崩されたため、「人間の目にうるわしく味わうのによさそうな」思想が教会に侵入してきました。弁証論、実存主義、共産主義などが、キリスト教の装いを着て教会を支配するようになりました。

 (3)神学全般に対する嫌悪

  理性崇拝に基づく神学がはびこることによって、反動として神学への嫌悪が生じました。神学校で、聖書に対する疑いを吹き込まれ、単純かつ健全な信仰が失われてしまうのであれば、いっそのこと神学校に行かないほうがよい、神学を勉強して不信仰になるならば、神学をやらないほうがよい、という誤った「反神学」「反知性」の風潮が生まれました。これに付随して、教会の中に体験重視の神秘主義的な教派が生まれました。また、人々は、「霊の過度の強調」によって、神の地上王国建設の使命を無視し、「地を従え」るのではなく、「天に逃げ込む」ことを求めるようになりました。

 (4)正しいテキストによらない翻訳

  理性崇拝に基づく本文批評により、教会において歴史的に用いられてきた多数派本文(マジョリティー・テキスト)が否定され、それまで尊重されることのなかったアレキサンドリア本文が用いられるになりました。

  

  「多数派本文が互いに一致しているのは、不自然な編集が行われたからである。それらよりも古いアレクサンドリア本文こそが本当のテキストと呼べるのである」とのリベラル本文批評の謬説を受け入れたことによって、19世紀中ごろから20世紀のクリスチャンは正しい翻訳聖書を読むことができませんでした。

  1900年もの間使用されてきた多数派のテキストが間違っていて、それまで見向きもされなかった少数派のテキストが正しいとすることは、「神は1900年もの間教会を誤謬の中に放置し、真理へと導いてこなかった」ということを告白することと同義です。多数派本文が一致し、数が多いのは、それが権威ある写本を元本としたからこそです。確実性の高い権威あるものが、多くの写本を生み出すのは当然のことです。

  理性至上主義者は、冷徹な実証性を重んじるといいながら、その実、信仰を否定する方向に議論を持っていくことが常です。多数派本文を否定して、アレクサンドリア本文を選択したのは、それほど確固とした理由があるからではありませんでした。年代の古さにしても、最近、多数派本文のいくつかの年代がアレクサンドリア本文の年代と同じまでさかのぼることがわかっています。

 

>#ちなみに、私の教会では新改訳聖書を使っておりますが、恥ずかしながらこれが真

>性の聖書翻訳書だと思い、疑ってませんでした。(教会に加わった頃そう教えられ

>た。)

>

>そこで質問なのですが、実際にこのマジョリティーテキストを使って翻訳した場合、

>現在私たちが使用している新改訳聖書はどのくらいの違いがですのでしょうか? 大

>きな違いが存在するものなのでしょうか?

 

 約5000箇所違いがあります。

 キング・ジェームス訳と新改訳とを見比べてみてください。

大至急、多数派本文に基づく日本語訳を作る必要があると思います。

 

 

 

 




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