進化論ごときで何故熱くならねばならないか?

 

 なぜここまで進化論を批判しなければならないのか?

 クリスチャンならば、進化論を批判するのではなく、共存するようにしたらどうか?という意見があるかもしれません。

 しかし、進化論を受け入れることは、異質な世界観を受け入れることであり、大きな罪です。

 クリスチャンは、創造を信じます。創造を信じるということは、単に世界の起原についての科学的知識を得るということだけではなく、日々の行動の原理、善悪の基準、世界の見方、生き方、信念などあらゆる問題を変えることを意味するのです。

 創造を信じながら、自分の行動の原理を自分が作ることはできません。自分が創造者によって造られた存在であるならば、その創造者に従うことが筋だからです。神の創造を信じるならば、神が中心であることを信じることになり、神が中心であるならば、自分が中心であるという生き方を捨てる必要があります。自分の生き方はすべてこの神のためにあるのだ、としなければ自分の信念と行動とが矛盾します。また、自分の生き方だけではなく、全世界が、この神のために生きるように積極的に働きかけなければ自分の信念と行動とが矛盾します。

 創造か進化か、という問題は、人間にとって最も基本的な問題であり、人や社会の行動原理を支配する問題であると思います。

 

 何か小さな問題について、熱くなって批判することはあまり意味がありませんし、大人気ありません。しかし、進化論を受け入れるか否かは、人生を大きく変化させ、その人の一生を左右し、ひいては社会全体をも変える大きな問題なので、熱くならなければならないのです。非常に重要な問題――神の御言葉の問題――について、私たちは熱くならねばなりません。バトルになる場合もあるでしょう。互いにかなり辛らつなことを言い合うこともあるかもしれません。しかし、それでもこういった根本的な問題については妥協は許されないのです。こういうところで中途ハンパであってもいいというならば、そもそも、その信仰自体が中途ハンパなのです。その人は、神を中心とするのではなく、自分の快不快を中心にして生活してもよいと考えているので、クリスチャンと自称していてもキリストの弟子ではありません。

 

 

 

 




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