後千年王国説の実践 (2) part2 by ジェフェリー・J・ヴェントレラ

 

事実、預言者は、躊躇せず次のように述べた。「(主は)水が海を覆うように、主を知る知識で地を満たす。」(イザヤ11・9)と。恵みの教理は、御国の拡大を保証している。それゆえにこそ、「キリストは『世界の救い主』(1ヨハネ4・14)である」と言う言葉は真実なのだ。

この確実な未来を保証する終末論は、我々の心を、伝道と宣教に駆り立てる。たしかに、ポスト・ミレを自覚するほとんどの人々は、この意見に同意するだろう。しかし、それだけでは足りない。まだ次のような疑問が残っている。すなわち、「この『告白』は自分の生活において『実践されている』だろうか?」という疑問である。我々は、自分が口で告白したことを実践しているだろうか。

このことを調べるために、次の簡単な問いに答えていただきたい。

・あなたの家庭は、失われた人々に関して単なる教理的な学びをしているだけだろうか。それとも、彼らへの愛と情熱に満たされているだろうか。
・あなたの祈りには、「主が再生していない人々に対して御言葉を開いてくださるように」との願いが含まれているだろうか。それとも、あなたの「宣教」は、非改革主義者を「回心させる」ことに主に向けられているだろうか。9
・あなたは、「伝道」という言葉を聞くと、自動的に、アフリカへの宣教団体の派遣を思い浮かべるだろうか。あなたの隣人があなたの口から直接に福音を聞いたことがないにもかかわらず。
・あなたは、福音宣教のために身を切るような献金をしているだろうか。
・あなたは、キリストの体に属する他のメンバーについて、あなたの個人的な確信と先入観に基づく嗜好に照らして、彼らの宣教活動を日常的に非難していないだろうか。彼らが、あなたの眼鏡に適うだけの洞察力のある神学的意見を持っていない、というただそれだけの理由で。
・あなたの宣教活動には、反対者への宣教も含まれているだろうか。それとも、それは、ただ、同胞のクリスチャンを回心させるためのものであろうか。

ポスト・ミレの教理を真剣に受け取るならば、あなたは、喜んで伝道し、弟子作りに励むはずだ。もしあなたの中で、福音が第一になっておらず、諸国民を回心に導き、彼らを弟子とすることに対する情熱がなければ、あなたが、本当に楽観的終末論を信じているかどうかは疑わしい。率直に言えば、そのような終末論は、単なるうるさいドラやシンバルにしかならないだろう。

終末論は重要な問題である。そして、それは、我々個人個人の倫理的姿勢を問いかける問題である。神が御自身の教会の中に、とくに、聖書が教える楽観的終末論を信じる人々の間に、伝道と宣教の熱情をかきたて、我々が無律法主義者にならないようにお守りくださるように。

1. Westminster Confession of Faith, 3.1.
2. Piper, The Pleasures of God, revised edition(2000), 114.
3. 現実を正確に紹介するために述べるが、過去10年間、OPCは、教会建設のために働く「ホームミッショナリー」への支援を強化し、多くの新しい集会を生み出してきた。現在、OPCは、34人の「ホームミッショナリー」をサポートしており、そのうちの多くは私の友人や知人である。しかし、まだ疑問は残る。これらの新しい集会は、現在、宣教と伝道への熱情を示しているだろうか。
4. 人への恐れをかきたてる偶像礼拝の鋭い分析については、Welch, When People Are Big and God Is Small (Presbyterian & Reformed, 1997)を参照。
5. これと類たようなハイパー・カルヴィニズムの例は増加する恐れがある。事実、ある改革主義の牧師と思われる人物は、「私は集会が成長することを望まない。なぜならば、自分(や、自分の親戚)がコントロールできなくなるから。」と述べた。聖書によれば、神は、そのような権威主義的教会から燭台(表現を変えれば、羊飼い)を取り除くことがよくある、ということである(参照・エゼキエル34・1-10)。Chrnalogar, Twisted Scriptures, (revised edition [1998], 2000)は、権威を乱用する教会(非改革主義の教会においてであるが)の例を雄弁に紹介している。
6. たしかに、改革主義の信仰は、聖書的である。しかし、悲しいことに、たとえそれが良いことであっても、クリスチャンの堕落した心にとって偶像になることがある。「最も純粋な改革主義者」であることを喜ぶことが、キリストを喜ぶことに取って代わることがあるのだ。
7. Today's Evangelism: Its Message and Methods(1982), xv.
8. この見なれぬ二重否定の表現は、意図的である。へブル語の「セラ」と同じように、これによって、読者を立ち止まらせ、深く考えさせるためである。
9. 私は、「羊を救う」働きの重要性を否定するつもりはない。「羊を盗む」ことは悪だが。

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ジェフェリー・J・ヴェントレラは、アライアンス・ディフェンス・ファンドの評議員長、ブラックストーン法律研究所理事。バーンセン神学校の倫理学・弁証学教師。連絡先:jventrella@alliancedefensefund.org。

 

 

02/05/05

 

 

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