交わりの基本原則

 

<ご質問>
思えば、十分の一に関しては深く調べた事はありませんでしたし、教会でも具体的(十分の一算定基礎額について)に教えられた事が無かったように思います。聖書をしっかり学ぶことで、このような具体的な事まで回答を得られることを知り、ご教示下さったtomi先生に改めて感謝しております。
と言うわけで、これからの我が家の献金をどうするか?ということになりますが、基本的にこれまで通り給与総支給額の10%を捧げることにします。これだと、聖書で言う十分の一を超えますが、超えた分は文字通り献金(十分の一は返金)です。

<お答え>
十分の一献金は収入の六分であると言うと、教会員の中には「それだけでよいのか。」という誤解をする人がいるかもしれませんので、他の献金についても触れておく必要があります。

聖書は、捧げ物は、十分の一献金だけとは述べておりません。十分の一は絶対の義務ですが、それ以外にも、任意で捧げる共同体(交わり)献金があります。

モーセ律法の捧げ物には、大別すると、(1)償いの供え物、(2)聖別の供え物、(3)交わりの供え物と三つありました。

(1)には、罪の供え物(レビ4・1-35、6・24-30)、罪過の供え物(レビ5・14-6・7、7・1-7)があります。これらは、罪を犯した場合に捧げられるもので、現在ではキリストの名によって神に赦しを請うことに代わられています。キリストは我々にとって、罪の供え物となってくださいました(ローマ3・25、5・9、ローマ8・3、2コリント5・21など)。

(2)には、全焼の供え物(レビ1・3-17、6・8-13)、穀物の供え物(レビ2、6・14-23)、飲み物の供え物(民数記15・1-10)があります。これらは、神への完全献身を表します。新約時代において、クリスチャンは、神に対して自分自身の身体を完全にささげなければならないと述べられています。

「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 」(ローマ6・13)
「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 」(ローマ6・19)
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 」(ローマ12・1)

全焼の供え物は、動物の皮を除いてすべてを煙にしなければなりませんでした。完全な献身を表しています。また、その煙は「主を喜ばせる香り」(レビ6・15)であり、我々の完全献身を主が喜んでおられることを表しています。全焼の供え物は、絶えず捧げられ、その火を絶やすことはできませんでした(レビ6・8-13)。これは、我々の献身が一瞬たりとも途切れることがあってはならないことを意味します。穀物と飲み物(「酒」)の供え物は、我々が「飲むにも食べるにも主の栄光を表すためにせよ」(1コリント10・31)という生活全領域における献身を表します。

以上は、神の民の義務として絶対に捧げるべきものでした。つまり、神の民は、(1)罪の贖いを受け入れ、(2)聖い生活を送り、常にあらゆる領域において徹底献身しなければならないことが分かります。(*)

(*)この義務は、キリストによってすべて完全に成就しました。キリストは、罪の償いとなり、完全に聖い生活を送り、あらゆる領域において徹底献身されました。それゆえ、我々は、彼の功徳によって、我々も完全献身したものと見なされ、永遠の報いに与ることができます。しかし、キリストにおいて成就したのだから、我々は完全献身する必要はない、ということにはなりません。律法は、神の御心の啓示ですから、我々の生活の目標が律法にあることは明らかです。我々は、キリストを模範として、完全献身した生活をすべきであり、飲むにも食べるにも、政治においても経済においても、全領域において、徹底して自分を捧げ尽くす必要があります。政治や経済など世俗のことについては、世俗の原理によってもよいという教えは、聖書から導き出すことはできません。


(3)は、捧げる者の自発的意志による捧げ物であり、平和の供え物(レビ3、7・11-36)、揺祭(レビ記 7・30、7・34、8・27、8・29、 9・21、10・14-15など)、感謝の供え物(レビ7・12、13、15、22・29)、誓願の供え物(レビ7・16、17、民数記6・17-20)、自由意志の供え物(レビ7・16、22・18、21、23、23・28、民数記15・3、29・39、申命記12・6、17)、任職の供え物(出エジプト28・41、29)がありました。

これらは、戦勝記念(1サムエル11・15)、飢饉や伝染病の終止(2サムエル24・25)、国王候補者に対する是認(1列王1・9、19)、国民の霊的リバイバル(2歴代29・31-36)、家族の例年の再会(1サムエル20・6)、初物祭などの祭り(出エジプト22・29-31、1サムエル9・11-13、22-24、16・4、5)、年3度の集会(出エジプト23・16、34・20、申命記16・10、16、17、2歴代35・8、エズラ3・5)など、公的行事や祝い事があるときや、与えられた物を感謝する場合(詩篇56・12、13、107・22、116・17、エレミヤ33・11)、誓願をする時、人や自分が神のために働く時に捧げられ、一部を祭壇で煙とし(レビ7・30-31)、残りを祭司と捧げた人が食べました(レビ7:15、16、31-34)。これは、神と聖職者と自分が同じ運命共同体に属することを表します。

このように、神の民は、自分の生活において、祝うべきことがあったり、誓願を立てたり、感謝したりする場合に、それを聖職者や他の兄弟姉妹と一緒に分かち合うことが定められています。

旧約聖書において教える務めにあったのは祭司とレビ人でした。彼らには譲りの地が割り当てられておらず、財産を所有していませんでした。つまり、祭儀を執り行うことと、教えることによって以外に生活の収入源はなかったのです。
それゆえ、土地を割り当てられていた民は、その土地から上がる収益によって彼らを支える責任があり、十分の一と様々な奉献物によって生活を維持しなければなりませんでした。

今日、教会で教えに携わる人々、牧師や伝道師、宣教師を支える責任があるというのは、このように「神と人間との共同体」が根拠としてあります。つまり、我々がよく使う「交わり」という言葉は、単に集まって近況報告をすることだけではなく、「聖職者は祭儀を正しく執り行い、正しい教えを民に伝え、民はその代わり物質的なもので返す」ということを意味しているのです。もしこのような互恵関係が存在していなければ、その教会には「交わり」が存在しないということになり、主からの祝福を受けることはできません。

「ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいる<レビ人とともに>、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。… あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。 」(申命記14・18、27)

パウロはこの、交わりの原則をはっきりと述べています。

「もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。」(1コリント9・11)

「ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。 」(ローマ15・25-27)

このように、「交わり」の基本は、「霊的なこと」を受けた人々は、「物質的なこと」で御返しをすることにあります。

今日、教会においてこの原則が破られて、そのために、牧師がブライダルなどでアルバイトをするために、教会の本業のほうがおろそかになっているという現実があります。これは、牧師や伝道師にとって厳しい現実であり、大きなハンディですが、しかし、その負の結果は、信徒自身にも及んでいるのです。信徒は、牧師が勉強し、教えに携わる時間がないために、必要なことを教えてもらえず、信仰が弱くなります。物質的なお返しをしないことが、結局、霊的な枯渇につながっているのです。

このようにして、交わりは破壊され、共同体は弱体化し、主の恵みから遠ざかります。

十分の一は、最低の義務であって、それでよいのだということにはなりません。聖書の交わりの基本は、「レビ人をないがしろにしない」ということにあり、信徒は、教会の牧師や伝道師を支えるということに意を用いなければなりません。そうしないと、自分の未来をつぶすことになります。

 

 

02/03/29

 

 

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