傍観者になるな

 

再建主義について先生が下記に述べておられることは、よく理解できます(http://www.kingdomfellowship.com/Column//flowing33.html)。

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そこで私がいつも不思議に思うのは、例えばディスペンセイション主義者(前千年期再臨説)と再建主義者(後千年期再臨説)の間での議論の仕方、あるいは前艱難期携挙説者と艱難後期携挙説者の間の、さらには福音派と聖霊派のそのあり方である(注)。つまりその互いの説の正否を論じるに留まらず、相手の人格までも云々し合い、自説を認めるか否定するかの踏み絵的二者択一的選択を互いに迫り合う姿勢である。
これは親イスラエル主義者と反イスラエル主義者、あるいは親天皇主義者と反天皇主義者の間での議論についても同様である。
だからけっして接点は見出し得ない。
互いに自説が正統であり、相手は異端だからである。
自分は霊的に目が開かれており、相手はいない。
このように互いに相手の言質を取り、有無を言わせずに徹底的にねじ伏せるかのような姿勢には、少々辟易する(汗)。
この精神病理についてはすでに述べている。
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先生が対論における双方の立場についてどのような印象を持たれるかは、私がうんぬんできることではございませんので、この点についてコメントはできません。
また、先生が、「自説を主張し、自分を絶対化している」という印象をもたれるのは私たちにも非はあるでしょう。
しかし、聖書を読み、そこから教えられることを求める人々は、真理を求めているのですから、妥協のない姿勢は当然生まれてきます。
つまり、クリスチャンは、真理について(「相手の人格について」ではないです)妥協してはならないと教えられているのですから、必然的に対論において熱くなるのは当然と言わねばなりません。
パウロは、行為義認を唱える人々に対して一歩も妥協はしないと宣言しました。

実は、忍び込んだにせ兄弟たちがいたので、強いられる恐れがあったのです。彼らは私たちを奴隷に引き落とそうとして、キリスト・イエスにあって私たちの持つ自由をうかがうために忍び込んでいたのです。私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。 (ガラテヤ2・4−5)

旧約聖書において預言者は、預言が外れた場合に死刑に処せられるべきだと神は言われました。
真理を伝えることは、預言者として存在しているクリスチャンにとって、単に好みで選択できるものではなく、最高の義務なわけですから、それに対していいかげんな態度を取ることはできません。

もし再建主義ということで、私の議論を見ておられるならば、先生には、次のように申し上げたいと思います。

「私は、論拠を挙げて、聖書から議論しようとしている。自分を義とし、相手を貶めることのために、自分の時間を一秒たりとも費やしたくはない。自分の王国を作るための時間や労力は神の報いを受けるに値しないので、無駄である。」

ヒューマニズムの風潮が強い現代において、「宗教真理に対する妥協ない姿勢」は毛嫌いされます。なぜならば、ヒューマニズムにおいて、「人間が価値の究極の判断主体である」というドグマがあるからです。だから、このドグマを脅かされない範囲において、ヒューマニストは、「まあまあ、喧嘩しないで。寛容が大切ですよ。」と教え諭します。
しかし、いったん、このドグマが脅かされるようになると、ヒューマニストは非寛容な暴君に変身します。

心理学を学んだ方々に共通する欠点は、そのヒューマニズム価値観の影響から、事物を見、判断する主体を知らず知らずのうちに、自我に置くということにあります。もし、聖書の神を判断の主体とするという立場を固守するならば、当然のことながら、判断の際に、「御言葉は何と言っているか」に向かいます。それゆえ、このような人々は、御言葉の本当の意味がどこにあるかにこだわり、意見が対立する場合には、真剣に議論をし、白熱した議論になることがしばしばです。

しかし、人間を判断の主体としてもかまわないという意見に影響されている場合、そのような人々は、宗教議論、聖典解釈の論争は、自分の価値の体系の中で低い位置しかしめていないので、そのような議論において口角泡を飛ばしている人々を、その対論の「内容」についてではなく、その議論の「ありさま」について批判する傾向が強いのです。

これは、いわば「傍観者」の心理であって、「当事者」のそれではありません。
クリスチャンは、神の御言葉について傍観者ではありえず、「常に」当事者なわけです。私たちは、「作られたすべての者に福音を伝えよ」といわれた者、神の預言者として召された者なのですから、冷ややかな批判をして済ませられるものではないはずです。

ヒューマニズムに冒されると、「偽預言者を処刑せよ」と命じる神は残酷だなどと平気で、聖書の神を批判するようにすらなります。

 

 

03/04/17

 

 

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