悪は無能の象徴である

 

>いままでありがとうございました。

>取りあえず納得しました。以下のような理解をしましたが、

>どうでしょうか?

>初め、神は世界を美しく造った。天使や人は、神の造った世

>界に捕われぬ、完全な自由意思を持っていた。

>しかし、サタンは自らが神になろうと、神が造りえなかった

>世界、悪を造り、人を誘った。ここで、世界に悪や醜悪な物

>が生まれた。

 

 悪とは、神の意志と逆のことを行うことですから、悪は「造られるもの」ではありません。

 

 それから、悪を何か能力と関係があるかのように考えることはできません。

 例えば、「神は自殺できない。だから、神は自殺者を妬むのだ」という人がいますが、悪を行うことを能力と考えることはできません。悪は無能の証拠なのです。

 

 「罪を犯す自由」というものはなく、罪はすべて奴隷状態です。

 「罪を犯す者は罪の奴隷である」とあるとおりです。

 

 「クリスチャンのみなさん!あなたがたは姦淫を犯すことが罪であると言って不自由な生活をしていませんか?私は神に縛られないので、自由に姦淫を犯すことができるのです。」という人はウソをついています。

 

 姦淫を犯して、「自由だ!」と感じられる人はいません。彼(または彼女)は、自分が奴隷であることを知っています。

 

 「このまま行けば間違い無く自分はダメになってしまう。」と心の奥底で感じています。人間は、善を行うときにすがすがしさを感じるように、悪を行うときに後味の悪い思いをするのです。罪を誇っている人は、強がっているだけです。

 

 反体制運動家でチェリストのロストロポービッチがテレビで言っていましたが、ソ連時代、隣人を密告して当局に売り渡した人々は、大きな家に住むことができ、昇進もすることができかもしれないが、良心に恥ずべきことを行ったのであるから彼らが幸せになれたとは思わないと。

 

 罪は能力ではなく、無能です。

 罪を犯す人は有能だからそうしているのではなく、善を行う能力がないからそうしているのです。

 

 サタンや堕落したアダムを有能者として描くことはできません。

 

 

>認識や自由意思は、神と変わらなかった人だが、判断力の未熟さ

>ゆえサタンに騙され、堕落した。

 

 人が堕落したのは、判断力の未熟さによるのではなく、「意図的な反抗」のゆえです。

 エバは、「神のようになれる」というサタンの誘惑に負けて堕落したのです。人間の根本的な問題は、神のライバルになりたいという願いにあります。

 

 人間は、生来、神の下にいることに不快感を感じます。自分の上に誰かがいることに満足できません。

 

 これは、明らかに「意図的反逆」であって、判断力の未熟さゆえではありません。人間は、神に逆らっていることを知りながらあえて罪を犯すのです。私たちが日常生活において体験するように、私たちは「意図的に罪を犯す」者なのです。

 

 もし意図的ではないならば、罪を犯したことを思い出すことを楽しむことなどしません。人間は、神の意志を知りながら、あえてその意志に逆らう者なのですから、言い訳は通用しないのです。

 

 「判断力が足りなかったので」というように、人間の問題の根源を「環境」に置くならば、キリストによる贖いを受けることはできません。

 「私が悪いのではなく、私の判断力が未熟だったので…」というのは言い訳にならないのです。

 

 このような言い訳をする人はいつまでたっても、罪の呪縛から逃れることができず、それゆえ、心に平安を得ることができません。どんなに金持ちであっても、心に平安がないために四六時中不満だらけです。

 

 精神的な問題の大部分は、このような責任転嫁の姿勢にあります。神の前に心を注ぎ出して、自分の具体的な罪を告白し、「悔い改めます」と祈る以外に解決はありません。 

 

>堕落した人は神に罰を与えられたが、キリストの身代わりで、そ

>の罪は許された。

 

 その通りです。ただ、キリストの身代わりを信じない人は、許されません。キリストを信じるとは、キリストの主権を受け入れるということです。つまり、キリストを神と認めることを意味します。「キリストを信じます」と言いながら、キリストの主権を認めず、自分勝手な生活を続ければ、その人は救われません。

 

 ある国の法律を平気で無視して破る人は、もはや国民とみなされず、公民権を剥奪され、牢獄に入れられます。それと同じように、神の法を守らない人は、神の国の国籍を剥奪されます。罪を許されて救われる人とは、キリストの命令を守る人です。たとえ守ることができなくても、常に悔い改めてやり直すならば、その人は許されて死後、天の御国に行くことができます。

 

>そしてその後も、喩えば、事故を起こしたドライバーを教習所

>に閉じこめ練習させるかのように、世界の中に人の自由意志を制

>限し、善と悪とを見分ける練習をさせることにした。

 

 教習所に閉じ込めるという表現から感じるのは、「拘束」や「不自由」です。

 しかし、神はクリスチャンを拘束しているのではなく、悪から守っているのです。

 繰り返しますが、悪は能力ではなく、無能です。

 神は、クリスチャンが徹底して堕落しないように、垣根をめぐらして悪を犯すことがないように守ってくださいます。

 

 人間は、神の守りが完全に取り去られたならば、最悪の罪を犯すことだってします。ヒトラーのように何百万人の人を殺したり、神をののしったりするようになります。しかし、神はあわれみをもってそのような罪の状態に落ちることがないように守ってくださるのです。

 

>その練習の為に、世界に悪を残す事を神は望んだのだ。

 

 世界に悪を残したのは、前にものべたように、その悪をすぐに裁くことを望まなかったためです。悪を行った人間を、すぐに地獄に送ることをしたくなかったためなのです。すぐに悪を裁くならば、私たちは悪を行った瞬間に生命を取られて、地獄に投げ込まれます。

 

 しかし、神は私たちが救われて祝福を受けられるように、猶予期間を与えてくださったのです。

 

 

 

 

 




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