偏狭ではない宗教はもっとも偏狭である

 

>つまり、無条件で受け入れてきたキリスト教が、自分達の教理・教義と異なるから神

>社参拝は反対だというのは、はなはだ不遜な考えとは思いませんか?

>「ヤーウェ」以外の神を拝むなといわれても、キリスト教を信じないものにとって

>は、「それでは止めます」とは言えませんよね。

 

わたし個人は、誰に対してでも、「神社参拝するな」と命令するつもりはまったくありません。牧師でもクリスチャンでも同じでしょう。そういうのはおっしゃるとおり不遜だと思います。わたしも牧師もクリスチャンも神ではないから。

今回は、小泉さん、あなたは私たちの代表でもあるから、私たちの税金を使って参拝するのはやめてください、と言っただけです。

 

>第一「ヤーウェ」の神といわれてもキリスト教を信じない圧倒的多数の日本人(確か

>キリスト教の信者は日本国民の1%と聞いた記憶があります)にとって、路傍の石こ

>ろ程度の価値すらないと思います。

>それよりも日本人には道祖神の方がすんなりと受け入れられると思います。

 

何千万人、何億人が、何かをどう解釈しようと、彼らにとって価値があるかないかは、その本体にある固有の価値を左右するものではありません。

例えば、ノーベル賞をもらう前の白川さんの研究の固有の価値と、もらった後のそれとに変化があるわけではありません。ただ、有名になったことと、名誉と賞金が入ったことぐらいでしょうが、それは、その研究そのものの持っている価値とは無関係です。

 

>富井さんの言う「偶像礼拝を許容する人は、絶対に救われない。たとえその人が洗礼

>を受け、毎週教会に通っていても、絶対にゲヘナに落とされる。」は、あくまでもキ

>リスト教のひとつの教えでしょう。

>我々日本人は決してそのような受け止め方はしません。

 

我々日本人というのは、おかしいいい方ですね。私も日本で生まれて日本で育ち、日本語をしゃべり、日本の国籍を持つものですから。

それから、多数派であるかないかは、教えそのものの価値や正当性を左右するものでもありませんね。多数派がいつも真理を認識しているとは限らないですね。時代によって考え方も変わるわけで、多数派がどのような考え方をしているかが問題なのは、その特定の地域の特定の時代の社会に適応するのに便利かどうか、ということだけでしょう。

むしろ、世界全体という視点で見れば、神道を信じている人の数は、キリスト教を信じている人の数から見れば、ほとんど無いに等しいでしょう。(もっとも、数が多いからキリスト教は真理だというつもりはないですが。)

 

>「我々が声を上げなければ、神は、我々が偶像礼拝を許容したとみなされるのだ。も

>し声を上げて、参拝を拒否するならば、問題は小泉の暴挙ということになり、裁きは

>小泉に下る。」と言うのであれば、もう充分に富井さんは「声を上げました」。

>ですから、富井さんが神に裁かれる心配はありません。

>今後あるとすれば、裁きが小泉総理にくだり、そしてそれを支援したものに下るとい

>うことになると思いますので、どうかこれ以上この問題には反対されないほうがよい

>かと思います。

 

「充分に声を上げた」かどうかは、誰にも分かりませんね。

 

>それにしても、「ヤーウェ神」とは、ずいぶん偏狭な神ですね。

>日本の神々の「何もかも受け入れてしまう懐の深い」精神を学ぶべきだと思います。

>そして「なぜ、日本の神々はかくも寛容なのか」を考えてください。

>それは大変意義あることと思います。  

 

「偏狭である」ことそのものは、絶対的な悪ではありません。

真理は一つである以上、真理は偏狭という性質を避けることはできません。もし、なんでも受け入れることが善いことであるならば、科学も合理的思想も成立できません。包摂的なものがすべて善であるというならば、大学入試ひとつとして成立できません。生徒の解答が正しくても間違っていてもすべて○をつけるのは、けっしてよい先生でも学校でもなく、真理に対してのみ、○をつけてあげるのがよい先生であり学校ですね。

「いや、宗教の場合は別だ。宗教は、包摂的なものがよいのだ」、と言う意見があるかもしれませんが、宗教だけを特別に扱わねばならないきまりは存在しません。

包摂的な宗教は、「いいかげんな」宗教であり、「悪い」宗教なのです。なぜならば、その宗教は、真理を中心とするのではなく、「真理であるかどうかは問題ではない。それが人を幸せにするかどうかだ」という点にありますから、つまるところ、人間の欲望の充足を中心としている「御利益宗教」なのです。包摂的な宗教は、時の権力が右を向け、と言えば、右を向き、大衆が左を好めば、左を向く、というように、ご都合で自分を変形させるものです。

御利益宗教が成立するのは、もちろん、そのような宗教を開いた人の利益と、それを信じたい人の野心が一致しているからです。宗教を開く人は、「これで一儲けしてやろう」というエゲツナイものであるか、「人民の困苦を救いたい」という崇高なものであるかは別として、とにかく、真理に固執しないという重大な欠陥があります。

本当に人間を幸せにしたいならば、「功利」だけではなく、そこに「真理」の裏づけがなければならないと思います。戦前・戦中の国家神道のように、「日本は神の国だ、日本人は神の子だ。だから日本は、アジアの盟主になるべきだ」と言うならば、「じゃあ、中国人や韓国人やは神の子ではないのですか?彼らを植民支配して、二流市民として扱うことも許されるわけですか?それは、保護の美名に隠れた侵略ではないのですか?」と心有る人から尋ねられます。包摂的な宗教ならば、こういった批判に対して、正しい答えを出すことはそれほど重要なことではないのです。なぜならば、包摂的な宗教にとって、合理性とか真理とか論理とかは大切ではなく、「それを信じている人にとって利益があるかどうか」が唯一大切なことだから。だから、包摂的な宗教は、「うるさい。黙って俺の目を見ろ、何も言うな。」と言う非常に偏狭な対応で終わることが多いのです。これは、包摂的な宗教の団体に加入したことがある人ならば、だいたい気づいていることだと思います。

皮肉なことですが、偏狭ではない宗教とは、実のところ、もっとも偏狭なのです。

 

>ところで、素朴な質問ですが、キリストやマリア像を拝んだ旧教の人々は、ゲヘナに

>落ちたのでしょうか?

 

像を拝む人は、ゲヘナ(火の池)に落ちます。

「偶像を礼拝する者、…はみな、神の国を相続することができません。」(1コリント 69

「…いのちの書に、…その名の書きしるされていない者はみな、獣を拝むようになる。」(黙示録 138

「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録 2015

 

>もし、そうならそれは証明できますか?

 

以上の聖書の個所によって証明できます。(科学的証明は、帰納法に基づく認識論の土台の上に成立しますので、経験可能な現象の世界しか扱えません。これは、経験科学の認識論の限界です。形而上学的世界、本体論的世界には適用できません。この領域の証明は、その体系の中における首尾一貫性(つまり合理性)に基づく以外ありません。)

 

>それに今でも、カトリックの総本山は隆盛を極めてますよね。

>それはなぜですか?

 

カトリックの総本山だけではなく、創価学会でも、ヒンズー教でも、イスラム教でも隆盛を極めています。隆盛を極めているかどうかは、それが真理であるかどうかとは無関係ですね。

 

 

01/08/06

 

 

 

 




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