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ユダヤ人は今でも選民か?

 

 ユダヤ人の救いに携わる団体に共通する特徴は、「ユダヤ人崇拝」である。

 

 今日でも、あたかもユダヤ人が選民であるかのように崇め奉る。

 

 実際、ある牧師はユダヤ人に向かって「あなたがたは選民です。」という。

 

 しかし、聖書は、はっきりと、「もはやユダヤ人もギリシャ人もない。」(ローマ11・12)と明言している。

 

 ある民族が選民で、それ以外は非選民だなどという区別は、キリストによって撤廃された。

 

 パレスチナが聖地で、それ以外は非聖地であるなどという区別もない。

 

 「天にあるものも、地にあるものもすべてが御子によって和解された。」(コロサイ1・20)

 

 と言われている。

 

 今日、イスラエルは霊的イスラエル=教会=クリスチャンの群れなのだ。(*

 

*)ただし、今日の改革主義のように、イスラエルは教会に置き換わった、それゆえ、ユダヤ人は救済史において、もはやいかなる意味ももたない(「置換神学」)というのは行きすぎである。

 

 パウロは、新約時代に「ユダヤ人」が存在する、そして、彼らはキリストに帰らねばならず、彼らの帰還は、救いの歴史において非常に重要な意味を持つ、という。(ローマ11章)

 

 救いの歴史において、ユダヤ人は、選民としてではなく、他の諸民族と同等の立場で(つまり、信仰によって)キリストに立ちかえらねばならない。

 

 他の諸民族と異なる点は、彼らが、アブラハムにおいて、召しを受け、約束を与えられているということである。

 

 「神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ11・29)

 

 「彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。」(同28)

 

 そして、ユダヤ人が回復するということをパウロははっきり述べている。

 

 「彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。」(同31)

 

 ユダヤ人は、他の諸民族の上にたって支配する民族であるとか、啓示を特別に与えられている民族であるなどという「選民的立場」を、2000年も前に失っている。

 

 「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」(マタイ21・43)

 

 紀元70年の神殿崩壊に続く世界離散は、この象徴である。

 

 ユダヤ人は、再びキリストの木に接ぎ合わされることになる。

 

 「彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。」(ローマ11・23)(**

 

**)メシアニック・ジューの人々の中には、「ユダヤ人は栽培種であり、異邦人は野生種だから」(ローマ11・24)、ユダヤ人が元祖であり本家である。」と言う人がいますが、これは、新たな選民思想です。

 

 聖書は、けっして「栽培種」だから、他の民族に比べて特別な地位(指導者、支配者、教師)にあるとは言っていません。

 

 「栽培種」であるというのは、もともと「栽培種」として特別な地位にあったという「事実」を表すだけであって、これからも特別な地位にあるべきであるというわけではありません。

 

 聖書のどこにもそのような主張はありません。

 

 むしろ、聖書は、「彼らはもともと栽培種として特権的地位にあり、救いに近かったのにもかかわらず、キリストを裏切り、預言者を殺し、神を否んだ。それゆえ、彼らは神から絶縁されてしまった。」ということを主張しているのです。

 

 もっとも誇り高ぶっていた民族が一番最後に救われるというパラドクスは、聖書に一貫して流れる思想です。

 

 「先のものは後になり、後のものが先になる」のです。

 

そのようにして、すべての民族が神の御前に平等にへりくだることが神の御心なのです。

 

 

 




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