実証科学、経験科学だけが科学であり、

それ以外は似非科学であると主張する人々の無知

 

実証科学、経験科学だけが科学であり、反証可能性が科学の唯一の試金石であると考え、それ以外は似非科学であると主張する人々は、科学の歴史を知らない。

 

(1)経験科学ですら、「反証不可能」な事柄を土台としなければ成立しないという事実を忘れてはならない。つまり、経験科学は、証明不能な約束事の上に成立する。その証明不能な約束事とは、「個物について考えたことは、普遍について考えたことになる」という前提である。

例えば、実験室で現われた個別の現象は、いつでもどこでもどのような場合でも反復可能である普遍的現象である、というのは、経験科学では証明できない。なぜならば、人間の経験はどこまでいっても有限だからだ。西暦20021月○日に、東京の△△という場所で起こった現象は、西暦112百万35百年に、地球から100億光年離れた××星の北緯30度東経110度において、まったく同じ実験環境で反復可能であるかなど誰も分からない。個別について考察したことが、普遍について考察したことになるかなど誰も証明できない。だから、現代の科学では、「個別について考察したことが、普遍について考察したことになる」ということを約束として受け入れている。

このような17世紀の経験主義が投げかけている「個物と普遍」についての根源的な疑問は、まだ答えられていないのだ。

だから、経験科学は、常に反証の可能性を残しておかねばならないのであるが、この反証の可能性そのものが、「経験科学の真正性」を脅かしている。つまり、経験科学だけが真正の科学であると主張する行為そのものが、「個物について考えたことは普遍について考えたことになる」という約束を、約束ではなく事実であると、主張していることになる。経験科学だけが真正の科学であると言明し、他は似非科学であると主張する行為そのものが、ドグマの形成であり、自分たちの立場の絶対化なのだ。

ここに、経験科学を絶対視する人々の「甘さ」があるのだ。彼らは創造科学を似非科学だとか擬似科学だとか言って批判するが、「似非」とか「擬似」という言葉を使うことそのものが、彼らが甘チャンであることを物語っている。「創造科学は我々が定義する科学とは異なる」とだけ言えばよいのだ。それを「似非」とか「擬似」という言葉を弄して、自分たちが「正統派」で、創造科学者は、「異端」であると区別立てをしているところに、すでに彼らが異端審問を行う宗教人であることが暴露されているのだ。

 

(2)自然科学の認識論と人文科学の認識論は異なることを知らない。19世紀全体を通じて人文科学についての認識論について論争が行われた。人文科学においては、自然科学のように、現象を個別要素に還元して、それら要素について調べ、そこから得られた知識を組み合わせて行けば全体が見えてくるという発想の仕方では間に合わないということに人々は気づいた。例えば、人体についてそれぞれのパーツについての知識を組み合わせていけば、人体全体についての自然科学的知識が増していくことは明らかである。しかし、パーツについて調べても、人間個人個人の総合的、倫理的、社会的評価は得られない。究極的に言えば、人間は原子や分子の寄り集まりでしかないが、そのような知識は、A氏とB氏の個性の差などの、人文科学的評価には貢献しない。実証主義の科学の認識論があらゆる分野に適用されるにつれて、この根源的問題が明らかになり、帰納法的手法では足りず、どうしても演繹的手法が必要になった。そもそも、人間の知識は、経験だけでは足りない。そこに、経験を超えた「総合的判断」というものがどうしても介在せざるをえない。このような「総合的判断」は、実験観察だけでは得られず、そこに直感が介在するわけだから、実験観察を超えた一つの「思弁」が必要なのだ。

これは、人文科学だけではなく、自然科学においても真理である。実験観察証明によって得られた知識だけでは人間は学問はできず、そこに直感に基づく総合的判断が必要なのだから。例えば、Aという物理法則とBという物理法則を結び付けて、一つの総合判断をする際に、厳密な「論証」だけではなく、「直感」が必要である。しかし、直感は経験科学の手法ではないわけだから、経験科学はそれを否定しなければならない。それにもかかわらず、経験科学がそれを完全否定できないのは、経験科学ですら、非経験科学の手法を取り入れずには何一つ知識を得ることができないことを示している。

こういうところからも、経験科学だけを真正の科学とし、ドグマを前提としてものを考える創造科学を似非科学とする人々が、いかに非厳密な思考をしているかが明らかになる。

 

 

02/02/01

 

 

 

 




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