情緒的と論理的

 

「朝まで生テレビ」なんかで、中にトンチンカンなことを言う人がいる。しかし、あの番組は、大体において、大学の教授とか政治家とか評論家なので、知的なレベルが高い人々が集まっているから、そういった人はごく稀である。

しかし、インターネットなどで議論していると、教育とか脳みそを鍛えることが重要であるとつくづく思い知らされる。

まず、知的訓練を受けていない人は、議論そのものができない。

理詰めで話すべきところに、情緒を持ち込んだり、話題の本質を読み取ることができなくて、末梢的な話題に流れていったり。

こういった「議論」の能力は、社会において指導的立場に立つ人々には欠くことができないものだ。だから、企業は、大学は大学でも、受験生の上位2-6%の人々を優先的に採りたがるのだろう。

トップの議論ができる人と、そうではない人とは、文化がまるで違う。大卒者と高卒者の間にはたしかに違いがある。しかし、大卒の間でも、論理的な会話ができる人とできない人がいることは事実である(もちろん、高卒者であるからとか、議論ができないからといって、その人の価値を認めないというわけではない。人にはそれぞれ持ち場があるからだ)。

知的能力の差は、歴然としている。

ホームスクーリングやクリスチャンスクールは、キリスト教を情緒的にとらえる人間ではなく、きちんと論理的に把握できる人を育てて欲しいものだ。

 

 

 

02/01/19 

 

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