「淘汰」説を主張すると、形質の発展は「飛躍」によったと考える以外になくなる

 

 知り合いの医者から聞いた話だが、人間の身体の中には、分泌物を出す器官だけではなく、それを身体の外に排出するための出口もあるという。例えば、脳の中にある液体は分泌されるだけではなく、それを排出する穴が開いているという。もしその穴がふさがっているならば、頭蓋骨の中の圧力が高まって生命にとって危険な状態となる。

 唾液もただ分泌されるだけではなく、それを排出する穴が口の中にあるという。

 さて、進化論が正しいならば、分泌物を出す器官だけではなく、それを排出する穴とそれが最後に汗や尿となって体外に出るまでの仕組みがすべて偶然にできたと考えなければならない。

 これは非常に難しいことである。

 なぜならば、例えば、脳の液を排出する穴が開いている突然変異体が生まれたとしても、穴が開いているというだけでは生存に有利であるとは言えず、それが体外にうまく排出されるすべてのシステムが同時に揃わねば、環境に適用した強者は生まれないからである。

 穴ができただけで管がない個体は死滅し、管が揃った個体が生存した?そして、管だけではなく、その管を通して排出された液体がうまく静脈の血の中に老廃物として流れ込む仕組みを持った突然変異体が生き残った?

 しかし、(1)「穴が開いているだけのもの」と、(2)「その穴に管がついているだけでそれが液の排出に貢献していないもの」との生存能力の差は存在しないはずである。なぜならば、(1)と(2)のどちらの器官も(3)「実質的に液を排出する」という役割を果たしていないという意味において「生存寄与度」は同じだからである。

 ということは、(1)から(2)の段階を踏んで(3)に至ったと結論することは必ずしも必須であるというわけではなく、むしろ、(1)から突然(3)に移行したと考えることが十分にできるということになる。

 つまり、突然変異と淘汰によって進化が進んだというならば、生存に寄与しない中間の形質というものがあったということを必ずしも前提にはできないということになる。なぜならば、中間形質が「淘汰」に役立たないからである。

 例えば、羽が生えていない動物が羽を獲得して空を飛べるようになったという進化の過程において、十分に空を飛べるだけの機能を持っていない羽を持つ動物と羽が生えていない動物との間に生存能力に差はない。いや、むしろ、足でもなく羽でもない前肢を持つ中間の動物は、邪魔なものをつけているので生存がしにくかったであろうと想像できる。

 だから、生物の進化の過程は、徐々に形質を獲得していったというよりも、「生存能力において十分に貢献する機能を身につけた個体」から「生存能力において十分に貢献するさらに高度な機能を身につけた個体」へ飛躍したと考える以外にはない。

 例えば、(1)地蜘蛛→(2)糸を出す器官を身につけたが巣を作る本能を持たない蜘蛛→(3)糸を出す器官と空中に巣を作る本能と備え、昆虫を捕獲できる能力を持つ蜘蛛 というように変化したのではなく(なぜならば(1)と(2)に生存能力に差はないから)、(1)から(3)にジャンプしたとしなければ、「淘汰」による説明は不可能になる。

 しかし、そうなると、「果たして遺伝子のランダムな変化だけによって、(1)から(3)へジャンプすることがはたしてあるのだろうか。」という疑問が起こってくる。

 すでに何度も述べているように、ティラノザウルスの1本の歯の片側にはギザギザがついている。このギザギザの一山が偶然に、このように、歯の片側だけに同じものが約30個も揃って並ぶ確率はきわめて小さなものだ。 

 一山が偶然にできたとしても、同じものが隣に並ぶ確率はきわめて小さい。しかも、それが30も40も並ぶということになれば、実質的に不可能である。こんな単純な形質の形成ですら不可能ならば、生物の身体を構成している様々な有機的な仕組みが偶然に整ったと考えることはきわめてナンセンスである。

 くどくなってしまったが、私が言いたいのはこういうことだ。

「中間の形質が生存に寄与しないものである場合に、『淘汰』による進化の中において、その中間形質は存在の意味がないため、進化の説明においていかなる意味もない。つまり、進化があったと主張するならば、この場合、形質は『役立つもの』から『役立つもの』へとジャンプしたと言う以外にはない。しかし、偶然によってある『生存に役立つ形質』が整う確率はきわめて小さなものでしかない。それゆえ、このような奇跡の連続を主張しなければ成り立たない進化論なるものが間違いであると言える。」 

 

 

 




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