カルヴァン主義の2重予定説

 

誰が救われて誰が滅びるかは、神だけがご存知であって、人間にはまったく不明です。どんなに福音から遠い人であっても、神はなんでもできるのですから、どんな人でも救われる可能性があります。ただ例外があります。万事承知の上で棄教した人には救いの余地はありません。

カルヴァン主義の2重予定説とは、「神は主権者であり、万物をただひたすらに自分の栄光のために創造する権利がある」という前提から出ています。だから、人間の側において、「このように作って欲しかった」とは言えないのです。我々は、自分の姿形ですら、自分の意のままにはできません。美人に生まれたかったと嘆いても美人になれるわけではありません。そこに、神の主権があるのです。神は、ある人を美しく、ある人をそうではなく造られるのです。人間は、ある意味において、DNAの奴隷であり、受精の段階でかなりの部分(素質)を決定されているのです。我々人間は、このように、神が決定された運命について云々する権利はまったくありません。「神は同じ粘土から尊い器を作る権利もあるし、卑しい器を作る権利もある」のです。クリスチャンになるように作られている人はクリスチャンになりますし、ノンクリスチャンとして一生を終わるように作られている人はノンクリスチャンのまま死にます。

神は、クリスチャンとして一生を終える人を「あわれみの器」として永遠の昔から選び、永遠の祝福を与えるために創造されましたが、ノンクリスチャンとして一生を終える人を「み怒りの器」として永遠の昔から選び、彼らの罪に対して刑罰を下し、御自身の義を示すために永遠の昔から選んでおられるのです。

一つの演劇を例として見ると、演出家は神です。演出家は、誰をどの役に据えるかを自由に決定できます。劇団員がいくら「主役になりたい」と言っても、通りません。どのような役を与えられるかは、すべて演出家の一存にかかっているのです。

クリスチャンは、幸いな役を与えられ、ノンクリスチャンは不幸な役を与えられたのです。演劇の場合、役柄はその劇が上演されている間だけですが、クリスチャンとノンクリスチャンの役割は、永遠に続きます。だから、クリスチャンになれたということは、とてつもなく大きな幸いなのです。

神は、クリスチャンを「あわれみを注ぐための器」として創造され、ノンクリスチャンを「み怒りを注ぐための器」として創造されました。ノンクリスチャンは罪を犯して、神の法を破り、神に敵対し、神の存在を認めず感謝もせず、イエス・キリストを否定して、自己満足の中で生活し、一生を終わりますが、それは、そのように定められていたからなのです。彼らの運命は永遠の刑罰です。

しかし、それでは、彼らは「神よ。なぜこのような運命に創造されたのですか?こんなところで永遠に苦しむなんてあんまりです。」と叫んでも、神に落ち度はまったくありません。なぜならば、彼らが滅んだのは、もっぱら彼らが神の法律に違反したからです。神は、けっして人間を誘惑して罪を犯させることはしません。人間は、ただひたすらに自分の欲にひかれて罪を犯すのです。

殺人者は、どんなに言い訳をしても、人を殺したのは自分の意志によるのですから、その罪の責任を人のせいにすることはできません。「どうして俺の手の届くところに手ごろな値段で包丁が売っているんだよ。」と怒りを包丁屋にぶつけることはできません。

さて、それでは、どの人が「あわれみの器」であり、どの人が「み怒りの器」であるかは、人間の目ではわかりません。

もちろん、キリストの十字架の死が自分の罪のためであり、キリストが身代わりに自分のために死んで刑罰を受けてくださったと信じて、バプテスマを受け、教会に加えられた人は、「あわれみの器」であることは間違いありません(ただし、後になって考えを変えて、自分の意志によってキリストを否定するようになるならば、その人は「あわれみの器」ではありません。彼はもともと「あわれみの器」として選ばれていなかったのです。背教は、彼の本質が表面に出たに過ぎません)。

しかし、ノンクリスチャンを見て、この人はどちらの器かを判断することはまったくできません。20年間教会に通っているがバプテスマを受けようとしない人は「み怒りの器」かというと、必ずしもそうとは言えません。なぜならば、神はいつどのように人を救うかについて完全な主権を持っておられるからです。1時間の説教で救われる人もいれば、死ぬ間際になってやっと救われる人もいるかもしれません。

「聖霊は思いのままに吹く」のです。この聖霊の活動の予期不可能性こそ、神の主権の現れなのです。人間がどんなに口八丁手八丁で説得しても、救いは完全に神の選びの結果ですから、救われるかどうかは不明です。落語家ならば、実力というものがあるでしょうが、伝道者にはそのようなものはありません。もちろん、分かりやすく話しをするとか、幾分の技術において違いはあるでしょうが、伝道の結果は、すべて聖霊の働きなのですから、口下手な人がとつとつと語る言葉によって救われる人が沢山起きて、大説教家がほんの数人しか救われる人を導くことができなかった、というようなことがあっても不思議ではないのです。

我々にとって、誰が救われるか人間の目ではわからないのですから、とにかく語ることが大切なのです。

いわゆる極端な予定説を取る異端的カルヴィニズムは、人間の目で誰が救われるか救われないかを予期できるというので、宣教において大きな妨害となってきました。

これは、カルヴァンが言ったこととまったく矛盾していますし、そもそも、聖書はそのようなことをまったく言っていないのです。

 

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01/11/21

 

 

 

 




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