キリスト教に王道はない

 

社会に出ると、まず耳にするのが、「結果がすべてだ」という脅し文句である。

つまり、どんなに頑張っても、結果として成果を上げることができなければ、何にもならない、ということだ。

学生時代は、努力は賞賛されるが、社会では結果だと。

たしかに、商品を買って、フタを開けたら不良品ならば、金を返せといいたくなる。顧客にとって、生産者がどれだけ努力したかはあまり意味がない。受け取った商品が実際に役立つかどうかが問題だからだ。

同じように、会社に雇われている人間が、きちんと仕事をしなければ、どんなに御託を並べても、相手にされないのは当然である。

仕事が失敗したら言い訳はできない。そういう意味において社会人には大きな責任があるのだ。

さて、このような結果を厳しく問うという気風は、世界の常識かと言えば必ずしもそうではない。おおむね、世界の諸国は、日本よりも結果に対する責任をそれほど厳しく問わないようだ。

商品を注文したのに、届かない。カウンタに預けた荷物が他の便に混じってしまい、受け取ることができない。電車やバスは時間どおりに来ない。ブッキングしていたホテルが満室で追い返された…。

このような不手際は、海外を旅行すれば頻繁に耳にする。

ロシアでは、大学の行事で遠足に行った帰りに、観光バスの運転手に「もう勤務時間が過ぎたのでここで降りて欲しい」と言われて途中で全員降ろされた記憶がある。さすがに労働者の天国だと納得したものだ。

日本人ほど、パーフェクトな仕事をする民族はめずらしい。アメリカでも、商品の誤配なんてよくある話である。

しかし、このような日本人の長所も、行きすぎると有害である。

結果にこだわるあまりに、実利に直結しない思想とか学問に関心を持たないことが多い。日本においてキリスト教が広まらないのは、キリスト教を信じて具体的にどのような利益があるかが見えにくいからである。

「天国に行けます」と言われても、唯物論的な教育を受けた者たちにはぴんとこない。逆に、キリスト教を信じる人の多いアメリカでは、犯罪も多いし、道徳は乱れている…。キリスト教にどんな利点があるのか?と尋ねられる。

ここが難しいところである。つまり、思想というものは、確実に結果を残す運命にあるのであるが、それが目に見える形になるまでには時間がかかるからである。キリスト教を信じている国を見れば、そうではない国よりもはるかに経済的にも文化的にも高いのは歴然としている。GNPで比較してもそれは明らかである。サミット国で歴史的にキリスト教国でないのは、日本だけである。イスラムが経済的に裕福なのは、石油のおかげである。仏教国で経済的に裕福になった国は、西洋文化を取り入れたからである。その前は、日本も中国も韓国も極貧にあえぎ、因習に苦しめられていた。

歴史を見れば、長期的に発展した地域は例外無くキリスト教の影響を受けた地域である。なぜならば、キリスト教は「パン種」だからである。パン種はかならず周りを膨張させる。福音が入れば、それは必ず文化に影響を与える。

結果にこだわるのは、市場経済社会において当然のことである。我々は顧客に受け入れられる仕事をしなければならない。

しかし、同じことを思想に求めてはならない。思想が社会に対して影響を与えるのは徐々にだからである。

キリストは、福音は「苗」だと言われた。

「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコ4・28-29

苗が突然実を結ぶわけではない。苗を植えたら、次は穂である。穂をとばして実を得ようとするから、多くの人は失敗する。

我々のモットーは、「まず苗」でなければならない。

今日、教会成長にこだわる人々は、苗を植えたらすぐに実がなるものだと勘違いしている。苗から実を得ようとするのは、ギャンブラーや泥棒と同じである。馬券を買って、すぐに金に変わると期待し、着実な労働を避けて、一夜にして金持ちになろうと人の家に押し入る人と同じなのだ。

キリスト教には王道はないのだ。

韓国のある有名な牧師が、20世紀中に日本の1000万人が救われると預言し、日本の多くの牧師がそれに追随し、多くの伝道集会が開かれたが、預言は外れ、その牧師は「私の責任は終わった」と言って、すごすごと国へ帰ってしまった(偽預言者の特徴は、自分の語った言葉に責任を持たないところにある)。いや、預言が外れるどころか、むしろ、現在、キリスト教はそれを預言した10年前よりも信者の数が(1%から0.6%に)減ってしまった。

そもそも、突然1000万もの人が救われたとしても、彼らをどうやって受け入れて、訓練するのだろうか。神学や教理教育を嫌う牧師たちによって、どうやってそれらの大量の新来者を育てることができるというのか。

彼らは携挙という超自然的な解決を予期していた。彼らは20世紀中に1000万人の人々が救われて、その後時を移さずに携挙があって、新しいクリスチャンは天に携え上げられるだろうと期待していたのだ。

何と、安易なのだろう。何と、無謀なのだろう。

今日のキリスト教は、一発屋なのだ。山師なのだ。

一発屋が、「みんな、見ててくれ。俺は今度のレースで大穴を当ててみせるから。」と言い続けても、次第に人々から相手にされなくなるように、今日のキリスト教界も、すでに、心ある人々から相手にされなくなっている。

「今度の大会で、宣教のうねりが日本に起こるだろう。」とか「日本民族の救霊のために立ち上がれ!」とか呼びかけても、「またか」としか思われなくなっている。こういった掛け声に人々はうんざりしている。

キリスト教は行き詰まっている。

今日の、聖会主義、伝道会主義は、バブル前後の一発屋が跋扈していた時代には通用しても、今日のような実力を問われる低成長の時代には通用しないのだ。脆い柱が地震に堪えられないのと同じように、まがい物のキリスト教も時代の試練に耐えぬくことはできないのだ。

クリスチャンは、この逆境の時代にこそ、本物を見分け、本当の実力をつけなければならないということに気づかねばならない。

神は、着実さを求めておられる。一歩一歩、自分の足で歩み、信仰を鍛えなければならない。表面的で性急なリバイバルに目を留めるのではなく、3世代先、4世代先に、自分の家族や教会が、日本に対して強い影響力を与えられるように、地道な教理教育と訓練に努めなければならない。

我々のモットーは、「まず苗」でなければならない。

 

 

01/07/21

 

 

 

 




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