今日でも奇跡はある2

 

森本先生は、自分が瞬間にある場所からある場所に移動したことがあるとたびたび語っておられます。

これは、使徒の働きにあるピリポの瞬間移動(840)と同じと思います。

聖書には、ピリポのほかにも、エゼキエル(312-15)、エリヤ(2列王211-12)、エノク(創世記524)、そして、イエス御自身(マタイ45, 8)など、物理法則を超えた移動をしたと証言する個所があります。

森本先生の話は、他のクリスチャンからあまりそのような証言を聞いたことがないので、「ウソだ」と思うクリスチャンが多いかもしれませんが、私は可能性を信じています。なぜならば、聖書がそのようなことがあると、記しているからです。

それに対して、現在の福音派や改革派の多くは、「このような奇跡は、聖書が完結した今では起こらないのだ」と言いますが、聖書が完結したことが、奇跡の終結をもたらしたと証言する個所が聖書には一つもないのです。

いくら聖書信仰と言っても、「聖書を超えてものを言っている」わけですから、彼らは実質上聖書信仰を捨てているのです。

正統的な科学ですら、「そんなことは起こるはずがない」とは言いません。なぜならば、科学とは「<通常>、物体は物理法則に従って起こる」ということしか言わないからです。超自然的な外力が働いた場合のことまで科学は言いません。「そんなことは起こるはずがない」という科学者がいたとすれば、それは経験科学の前提を踏み越えているのです。「神が超自然的な外力を働かせて物体を移動する可能性がない」ことを経験科学は示すことができません。

今回の、「大学の卒業単位担当者」の考えが変わったことも、一つの奇跡だと思います。このような、不思議なことは、クリスチャンならば、みんな経験したことがあると思います。

一年前、知人のK氏の奥さんが、脳梗塞で倒れて、CTスキャンで調べたところ、脳に損傷が認められました。言語が幾分不自由になりましたが、生活に支障がない程度でした。

しかし、先月、「驚くべきことが起こる」という示しがK氏にあり、その直後、再び急に奥さんが倒れて、再発か?と私たちは慌てました。しかし、CTスキャンで調べたところが、再発どころか、以前損傷していた部分が跡形もなく消えていたのです。恐らくこれは、奇跡だと思います。

先日、わたしも、K氏と祈っているときに、聖霊が油のように、頭から、あご、そして、胸にトロトロと流れるような感覚を覚えました。それは、丁度、「私たちを遣わして、福音を伝えさせ、人々を解放し、再建を行わせてください。」という内容の祈りをしていたところでした。祈りの途中で、何かに促されるように、K氏が、聖書を開きはじめてペラペラとページをめくっていると、それと丁度同じ内容のページを開いたのです。それは、イザヤ61章でした。K氏は、富井君の祈りはこれとまったく同じだったよ、と言いました。

イザヤ61章は次のとおり。

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主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め

シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。

彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。

あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ/国々の富を享受し/彼らの栄光を自分のものとする。

あなたたちは二倍の恥を受け/嘲りが彼らの分だと言われたから/その地で二倍のものを継ぎ/永遠の喜びを受ける。

主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。

彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。

わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。

大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。

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実は、わたしは、献身をして、神学校に入る準備をしている時に、これと同じ個所を示されていたのです。

「彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」が私の献身の時の聖句でした。

また、同じような内容の聖句も、何箇所か示されているのです。それは、すべて「再建」というテーマでした。ネヘミヤ記やエズラ記から「再建」という言葉を示されていました。その頃は、まだ、再建主義に出会っていなかったので、何故「再建」なのか分かりませんでしたが、神学校の2年生の時に、Reconstruction (再建)神学と出会い、これだったのかと分かりました。

これもある意味で奇跡と言えると思います。

もし、この世界から奇跡を取り去ってしまえば、「宿命論」に陥らざるをえないのです。

「すべては、科学の法則に則って起こる」という考えは、ヒューマニズムの科学理念の「自律(または内在論的)思想」です。すなわち、「この世界は閉じられた系であり、そこには、神などなく、また、いるとしても、けっして世界に影響を与えない」という無神論または理神論です。

現在のキリスト教は、このように、奇跡を排除したヒューマニズムの自律思想に汚染されているのです。

もちろん、我々が信じているのは、「奇をてらい、人々を驚かせるためだけの奇跡」ではありません。そのような奇跡はサタンが行うのです。サタンが行う奇跡は、何の意味もなく、人々の徳を高める目的のないこけ嚇かしの、無意味な奇跡です。

奇跡、霊、預言、癒しの回復こそ、キリスト教の再建において重要なテーマの一つと考えております。

 

 

2001/08/30

 

 

 

 




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