ノンクリスチャンに聖餐を授けてもよいか?

 

F先生の御見解を読み下記感想を述べます。
F先生をFとし、富井をTとします。

<F>
 …西欧において、洗礼を受けた者は、即その国民という意味でした。すると、ここで聖餐に与れる人は、その国の人であることになります。ということは、ここでも異物排除という論理は動きます。そして、教会が異物、つまりその国の人ではない人を、宗教というレベルにおいて明示し、区別する道具と化していることになるのです。
 いっぱしの「教義」という衣をまとい、説明自体はどこまでも聖書からなされていても、その実体は政治の道具と化してしまっている、という一面は、見落としてはなりません。
 聖餐式が洗礼を受けた者だけに限られている、ということ自体に、政治の影が存在していること、キリスト教としての自由闊達さ、神の恵みの大きさ、広さが、ずいぶんと疎外され、窮屈な状態に置かれてしまっている現実が見えるのです。
 今、キリスト教を「国教捕囚」から解放する時が来ているのです。

<T>
まず、全体的に見て、問題の扱い方に大きな問題があります。
幼児洗礼、条件的聖餐を、キリスト教の国教化との関連でとらえることは面白い試みではあるとは思いますが、聖書的教理は、聖書に基づく場合にのみ効力があるわけですから、それについて語る場合においても、まず、第一に、聖書からの論証が必要ということを確認しなければなりません。単なる歴史的、社会学的な問題へのアプローチだけでは、クリスチャンを納得させられないだけではなく、論そのものが聖書から逸脱する危険性が多いと考えます。


<F>
…聖餐はキリストの十字架を現すものである限り、神の一方的な恵みに与ること
だと言えましょう。すると、神の恵みに与りたいという人は、差別なく、つまり誰でも
分け隔てなく受けられるものであるのです。それが洗礼を受けた者「だけ」が受けられ
るというのは、キリスト教として本筋を外してしまった姿勢に堕ちていないでしょうか。

<T>
「聖餐はキリストの十字架を現すものであり、神の一方的な恵みに与ること」であるのは事実ですし、それゆえ、「神の恵みに与りたいという人は、差別なく、つまり誰でも分け隔てなく受けられるものである」というのも事実です。
どのような人であっても罪の赦しを受けることを望み、永遠の生命に与りたいと望む人であれば、その願いをかなえてもらうことができると、聖書は述べています。ただし、それには、一定の条件があります。それは、「キリストを信じること」です。
イエスは、「私によらずには誰も父の御許に行くことはできない」と言いました。
地位にも富にも民族にも関係なく、誰でも、救いに与ることができますが、ただし、「ただキリストにあって」という制限がつきます。
もし、「キリスト抜きで」御国に行くことができるというならば、それは、もはやキリスト教ではありません。
これは、聖餐についても言えます。
誰でも聖餐に招かれています。
しかし、「ただキリストにあって」なのです。
マタイ 22:1 からの「天の御国」についての例話は、このことを例証しています。
誰でも神の国に招かれていますが、無条件でというわけではありません。「礼服を着ている者」だけが食卓につくことが許されたのです。

ここにおいて、礼服とは、「キリスト」を表します。
マシュー・ヘンリーはこの個所について次のように述べています。
「主イエスを着、心がキリストによって変えられ、キリスト信仰によって生き、キリストが生活のすべてとなっている者だけが、婚礼の礼服を着ることができる。キリストによって義が転嫁され、聖霊の清めがなければ、宴会に出られない。生まれつきの人間は、礼服を着ていない。また、自分でそれを縫い上げるということもできない。…多くの者が、婚礼の宴会――つまり、救い――に招待されている。しかし、礼服――つまり、キリストの義と聖霊の清め――を着ている者は少ない。だから、我々は、自分が信仰に留まっているのか、そして、王なるキリストによって認められる状態にあるか吟味しようではないか。」

誰もが救いに招かれており、神の恵みに与るよう呼びかけられています。しかし、キリスト信仰という礼服を着ていない者は、神の国に入ることはできないのです。洗礼は、信仰の告白であり、聖餐は恵みの中にいるということを確認します。

神の招きとは、けっして無条件ではありません。
もちろん、家柄とか、民族とか、資産、地位などは関係ありません。
キリストを信じているか、聖霊の清めを受けているか、ということなのです。
もしキリストを信じておらず、聖霊の清めを受けてもいない人が、聖餐という神の食卓に着くことが許されるならば、キリストの十字架の贖いとは一体何か、キリストによる義の転嫁とは何か、ということになり、もはや、それはキリスト教であることをやめてしまうのです。
聖餐を無条件に万人に解放することは、礼服を着ない人を神の宴会に招くことを意味しており、聖書的ではありません。

 

 

02/09/11

 

 

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