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日本の法律は強制力を持ち、宗教は社会において強制力を持ち得ない?

 

> 日本の法律は、ある行為が「社会的に」「他人に対して」どんな影響を与えまた

>どんな意味を持つか、という「社会的な議論」を通して制定されている。

>神の存在・言葉のような他人と共有しようのない(すべきでもない)個人的な信仰

>ではなく、社会的な議論を経て成立し、また変えて行くものだから。人間が社会で

>他人と共に生きているという現実がある以上、ある程度の「強制」は必要だろう。

>「自分の信じる神」が命じた、というのは「自分だけの信仰」でしかない。そこに

>は、「社会」的な議論もなければ、ある行為が「他人に」このような影響を与える

>から禁止する、といった「他人と議論できるような根拠」もないわけだ。そのよう

>な信仰は、人によって大きく異なるし社会において「合意」としてひとつのものに

>まとめるようなものではない。それは、社会ではなく個人の信仰なのだから。」

 

 今日の近代国家の法律は、「もっぱら社会的な議論に基づいて形成されている」と考えるのは、相対主義の幻想である。

 

 キリスト教にしても、イスラムにしても、オウムにしても、ライフスペースにしても、そして、近代国家の基礎となっている「ヒューマニズム」にしても、人間が議論しても解決のつかない「形而上学的断定」から出発している。

 

 もし、「形而上学的断定」をすべてことごとく完全に廃棄してしまえば、人間は何を決定することもできないから、法律を作ることは諦めなければならない。

 

 結局、だれかの「主観」を採用して、それを与件として、法律を作り、その「主観」に同調しない人々を脅迫し、違反した場合に罰せざるを得ない。

 

 わかりますか?

 

 つまり、今日の日本の法律が「個人の信仰」ではなく「公的な信仰」であると考えているのは、そのように考える人が多数派を占めているからであって、それが「公的な信仰」「普遍的な真理」であるという保証はどこにもない。

 

 「いやいや、みんなで決定することは、宗教教祖の意見を押しつけられるよりもよい。」とするのは、「みんなで決定するのが正しいと信じる教」の教義であって、そんなもの近代になってから流行している「人間教」の一種でしかない。

 

 もし、「みんなで決定するのが正しいと信じる教」が普遍性をもち、「公的な信仰」であるというなら、その根拠はどこにあるのでしょうかね。

 

 「みんなで決定するのが正しいと信じる教」がある時代においてある小説を「猥褻」であると判断する。しかし、「みんなで決定するのが正しいと信じる教」の善悪の根拠は、「みんながそう言うから」ということでしかないから、時代が変われば「あの時に猥褻であると判断したのは、現在の『みんな』は猥褻ではないと考えているから間違っていた。」と言うようになる。

 

 つまり、「みんな」は「みんなで決定するのが正しいと信じる教」の教祖なのですよ。

 

 この「みんな」様は、ライフスペースの高橋オッちゃんとどこが違うのですか。

 

 「みんな」様は多数だから良くて、ライフスペースの高橋オッちゃんは一人だから間違っている?

 

 結局、数が多けりゃいい?

 

 数が多ければ真理?

 

 数が多ければカルトじゃなくて、数が少なければカルト?

 

 数が多ければ「公的な信仰」で強制力を持つ権利があり、数が少なければ「私的な信仰」「勝手な信仰」だから強制力を持つ権利がない?

 

 ユダヤ人は劣等民族であり抹殺されるに値すると「みんな」様が議会で決定すれば、ユダヤ人を皆殺しにしてもいい?

 

 国力増強のためには、中国大陸に進出して無辜の市民を虐殺するのもやむをえないと「みんな」様が決定すれば、従軍慰安婦を連れて、中国人の首を切りながら、大陸を凱旋できる?

 

 

 「みんな」信仰においては、「みんながこう言っているから・・・」が殺し文句である。

 

 「クラスのみんなが○○ちゃんをいじめているからボクも・・・」というのは「みんな」信仰においては、けっして卑劣なクズ人間の逃げ口上ではなく、主義信条に忠実な英雄的な態度である。

 

 

 

 超越的な基準は一切存在せず、超越的な基準を持ち出すものをすべて「勝手な信仰」「個人的な信仰」であると断定し、超越的な基準に強制力を与えることを拒否するのが、「みんな」信仰の専横である。

 

 しかし、「みんな」信仰の信者たちは、自分達が専横者であるとは考えていない。

 

 「みんながそう言っているんだから・・・」は「みんな」信仰の信者たちにとっては「普遍妥当性を持つ絶対的な基準」なのだ。

 

 

おまけ:

 

 「みんな」信仰は、300年も前にヒューマニズム自身否定している。

 

 ヒューマニズムは、人間の認識の及ばない領域(ヌーメナルの領域)については、誰も確固たる断定を下せない、と諦めている。

 

 何が善であり何が悪であるかを決定する倫理の世界、霊的な世界、死後の世界、実験観察の及ばない世界、本体の世界については、人間は「主観による断定」を下さざるを得ない、というのはいわば常識中の常識である。

 

 だから、民主主義的な手続きを経たものは「公的な信仰」で、それを経ていないものは「個人的な信仰」であるなんて言うことはどうしても言えない。

 

 

 

 




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