パラダイムシフトには時間がかかる

 

私は、ポスト・ミレになるのに、しばらく時間がかかりました。
ポスト・ミレは、聞いてみると、あたりまえにすんなり入ってきますが、あまりにも
常識的過ぎるので、逆に本気になりにくい。

パラダイム・シフトには苦労が伴うので、互いにあれこれと考え、議論を戦わせる中
で発見し、その発見を聖書と照らして確認していく以外にはないのではないでしょうか。


日本人は、とかく既製品を喜び、出来上がって、政府のお墨付きのついた
ものを買おうとしますが、開拓者スピリットの残るアメリカでは、どんどん新しいも
のを受け入れて、それを自分たちの目で選択するという冒険心があるような気がしま
す。

それは、絶対不変の「教典」の概念があるかないかの違いが、文化に濃厚に反映して
いるように思えるのです。

日本において、変わったことを言うとすぐカルト呼ばわりされますが、それは、絶対
不変の基準となる「聖書」がなかったからで、自分で判断する自信がないからなので
しょう。その聖書の代わりになったのが、「みんなが認めている」とか「政府も公認
している」という人間の評価であった。

しかし、聖書を信じる文化は、「聖書にどうあるか」が最終基準ですので、安心して
変わった教えを受け入れられる。まず耳を傾けて、それから聖書を調べる。他人がど
う考えているかは関係ない。聖書がどう言っているのか?

クリスチャンは、聖書を持っているので、人の評価に寄りかかる必要はないので、あ
る意味において、世間を知ったような顔をしている大人から見れば、聖書から議論し
ているような我々は「青臭い」のでしょう。

丸山真男の「日本の思想」(岩波新書)において、神道の起源について興味深い説を
唱えていたのを思い出しました。

江戸時代の国学者たちにとっても、神道の起源は分からなかった。その教義について
説明できない。なぜ、この神儀を行うのか、説明できない。それが何に由来するの
か。そこで、宣長は、どこまでいっても分からないところが、日本精神の真髄なの
だ、と開き直った、と書いています。

そこで、「うるさい。いちいち質問するな」という文化が生まれた。「男は黙って
サッポロビール」と。

日本人が、アメリカやヨーロッパの教育と接して面食らうところは、「どんなに自分
が間違っていても、筋の通った説明をした方が勝ち」といえるくらいの図々しさを伴
う「論理性」が評価されるところでしょう。

まず「説明できる力」が求められる。

そして、論理的に話ができる、という力が尊重される。

これは、一長一短があって、まるごと賛同はできないのですが、聖書的な側面があり
ます。

この世界は、「合理的な神が創造した世界なので、合理的である」という信念がなけ
れば科学はできない。合理性は、文化命令(被造物支配)の達成において不可欠の
ツールであると。

ヨーロッパにおいて「のみ」科学が発達したことは、このような世界観抜きには考え
られません。

中国のようにやたらに「家長の叡智」が尊ばれ、論理よりも縁故が優先されるような
風土では科学は発達しないでしょう。

こういった不合理を尊ぶ思考様式は、世界の弟子化において障害なので、中国は、共
産革命によって、逆に、キリスト教の受け入れる準備をされたようにも思えます。ハ
ドソン・テーラーの時代よりも、共産制下においてむしろクリスチャンが増えている
というのはそういった事情があるからとも思えます。

ある意味において、リコンストラクショニストのリーダーのメンタリティーは、開拓
者の心的類型に当てはまるように思います。だから、大胆にものを言うことをはばか
らない(ある意味において図々しく、平均的クリスチャン的な基準で言えば傲慢な)
人が多い。その代わり、彼らは自分で自分のことを始末する気概もある。

だから、カビの生えた一般の改革派の本よりも、はるかに影響力がある。スコットラ
ンド長老教会の「決議」の真の動機は、最後に書かれている「このままだと、キリス
ト教界が再建主義に飲まれてしまう」という危機感にあると言ってよいように思われ
ます。

 

 

02/12/21

 

 

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