晩節を汚すな

 

若いときに神に用いられた牧師が、年を取ってから失態を演じて、晩節を汚すということをしばしば目にしてきた。

学生時代に救われて情熱をもって伝道し始め、教会も大きくなり、後継者も与えられて順調に進んでいたのに、突然ある問題が沸き起こって、その対応を間違えて名声を無くしてしまうという類のストーリーは、洋の東西を問わず見られるようである。

サタンは、人生の途上で、いくつかの美味しいごちそうを牧師の目の前に置く。それは、ある人にとっては名声であり、ある人にとっては教勢であり、またある人にとっては教会の会堂であるかもしれない。同期の牧師と比べて、大きな会堂を作ることに妙にこだわる人もいる。

このような世俗的な野心がひとたび心の中に侵入すると、彼の関心は神の御心の実現以外のものに向くようになるため、教会の中がぎくしゃくしていく。クリスチャンは、聖書の真理に従っているときに、平安を与えられ、群れは自然にまとまる。しかし、牧師に野心があると、彼は、信徒を自分の野心のために利用するようになるので、独立心のある信徒は教会を離れていく。残った人々は、家族と親戚と熱狂的なシンパだけである。

つまり、教勢を伸ばそうとしてあせると、かえって教勢は下がる。

また、自分が教会の中で天皇のようになるので、牧師との人間関係よりも真理を尊ぶ信徒たちが目障りになり、彼らを追い出そうとする。そのため、神からの祝福が去り、取り返しのつかないほどのダメージを受ける。

牧師とか教師とか政治家は、とりわけ神への信頼が試される職業である。信徒や生徒や国民の顔色をうかがわずに、本当に大切なこと、真理を頑固に伝えるだけの信仰がなければ、曲学阿世の徒に成り下がる。

とにかく、日本の教会はポスト・ミレを信じるべきである。ポスト・ミレは、「我々の働きはけっして無駄になることがなく、真理に立つならば、それは必ず勝利する」との信仰を持たせてくれるからである。また、目標を「自分の生涯の中で百人教会や千人教会を作る」というような短期的な事柄には置かなくて済むので、無用なストレスから解放される。

自分の生涯で達成できることは、(ふさわしい努力を傾けたのであれば)わずかであってもよい。百人教会や千人教会など作る必要はない。そういった能力のある人々がやればよいことであって、自分がパウロ・チョー・ヨンギのようになる必要はない。

ポスト・ミレは、「自分が生涯の中で行ったことがいかに小さな業であっても、神は必ずそれを用いて大きな計画を実現してくださる」と信じるので、周りを見渡して優越感にひたったり、逆に劣等感にひたる必要はない。

 

01/07/16

 

 

 




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