放縦者も禁欲者もサタンの奴隷である

 

「もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、『すがるな。味わうな。さわるな。』というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(コロサイ2・20−23)

 

 サタンの願いは、人間を「放縦」か「禁欲」のどちらかに偏らせることである。しかし、これらはどちらも「奴隷」であるという点で共通している。

 サタンは「肉のほしいままな欲望」に駆り立てて、肉欲の奴隷にしてしまおうとしている。罪は一回では終わらない。罪はその人を奴隷にする力がある。

 「罪を犯す者は罪の奴隷です」(ヨハネ8・34)

 神が禁じていることを行う人は、けっして自由な人ではなく、それからどうしても離れることのできない囚人である。彼らの手足には重たい鎖と鉄の玉がついている。

 

 他方「人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見え」る行いも、サタンの奴隷状態である。当時、柱の上に13年も座って黙想したり、山にこもって荒行をしたの苦行者がたくさんいた。彼らは、肉体を軽視し、純粋な霊となることを求めていた。この禁欲思想は、プロテスタントの中にも入った。そのため、宗教改革とは異質なものが教会の中に侵入してきた。

 

 それ以来、「すがるな。味わうな。さわるな。」という教えが教会を縛りつけ、キリスト教をひどく歪めてきた。

 

 結婚相手を選ぶときに、女性の容貌を基準とすることがあたかも罪であるかのように考えるクリスチャンが多い。人間は、その人その人に好みが与えられている。これは、神が人間を多様なものとして創造されたからである。神の属性の一つ「多様性」は、人間の好みの差において現われている。

 

 神が設定された限界とか境界(=法)以外のものを、自分や他人に押し付けることは、「この世の幼稚な教えから離れ」られないことであり、まだ「この世の生き方をしている」ことなのだ。

 

成熟したクリスチャンは、「善と悪との見分けができる」人であり、それゆえ、正しく人を指導できる人なのだ。聖書を深く学ぶことなしにどうして善と悪とを見分けることができるようになるのだろう。

 

 

 

 




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