2 祖地歴程

 

【 手 紙 】

 堀井さんが長年調べていらっしゃった日下部が、溝江家のご先祖だったとは、なんという偶然でしよう。そしてこの写真。朝倉義景の墓所に写っているのは我が家の紋、三木瓜(みつもっこう)ではございませんか。

私はこの紋を見て、体が震えました。

 

 今まで見た事も聞いた事もない遠い国で、私共の血の繋がるご先祖が大変なお仕事をなさっていたと伺った時の衝撃は姉上様にも汲み取っていただけると思います。

 この時、私はどうしても越前の一乗谷を訪れ、ご先祖様の眺められた風景を自分の目で確かめ、お歩きになった山川を自分の足で辿ってみたいと思い立ちました。

 しかしこの歳で、しかも病気勝な私が、そんな遠いところへどうすれば行けるのでしよう。途方にくれる私を知ってか知らずにか、堀井さんが「近いうちにもう一度越前に行く予定です。よろしかったらご一緒しませんか」とおっしゃるでは御座いませんか。するとそれを聞いた常仁(川口氏)が、「母さん、いい機会だから堀井さんに案内をお願いして行って見ようよ」と言ってくれたのです。

 私は二人のお顔を見ながら、ただ呆然としていました。

 私が”してみたい”と思ったこと、それも不可能とも思われる願い事が、こんなにも早く、即座に叶えられる等と云う事は、私の長い一生を振り返っても初めての事で、ただただ夢を見ている思いだったのです。

 しばらくして我に返った私は、ご先祖様が「逢いに来なさい」と私に告げ、手配りをして下さったのだと思いました。

 今でもそう信じております。

 

【 会 話 】

M「私若い頃、三木瓜の紋が大嫌いでしたの」

H「……」

M「何だかごちゃごちゃしているだけで、それが御道具だとかお膳だとか、家中あちらこちらに一杯でしょう。

 それに何となくあかぬけない感じで……」

H「そんな……、この紋は、おたくの御先祖様が、外国から攻めて来た賊を撃退した時、天皇がご褒美として、日下部という姓と一緒に下さったものであると云われています。

 家紋の事はよく知らないけど、恐らく家紋の歴史の中では、最も古い物の一つではないでしようか」

M「天皇から頂いたのですか」

H「あくまでも”伝説”です。

 家紋というものが一般化したのは、もっと時代が下ると思いますし、ご先祖は、天皇から頂くずっと前から日下部(日下)を名乗っていたはずです。

 家紋は代々伝えられて、遠い先祖と私達との繋がりを教えてくれます。

 ほら、この写真(朝倉義景の墓)を見ただけで、溝江家との繋がりがわかるでしょう。

 大変な歴史と由緒があるんだから大切にしなければ」

M「そうなんですか……、

 それに私、溝江という姓も嫌いでしたの。

 何だか溝というと”どぶ”なんかを連想しますでしよう」

H「とんでもない。古い昔、溝と云うものは、人々の生活を左右する大切なものだったんです。

 弥生時代、人々がお米を造る様になった時、一番必要なものは、田へ水を引く「溝」でした。

 溝は当時の人々にとって神聖なものでした。そのころ”八つの大罪”と云うものがあって、その五番目に溝や畔を壊す罪があげられています。この禁を冒したものは、その部族から「永久追放」になりました。

 三島溝杭神という溝の神様迄いらっしゃいます。この神様のお孫さんだったかな、たしか神武天皇のお妃さまになっています」

 

【 モノローグ 】

次に日下部・朝倉・溝江各氏の略譜を記しておく。

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 日下部氏の出自に関しては、開化天皇皇子彦坐(ひこいます)王を祖とする説、用明天皇第二子来米(くめ)皇子を表米とする説(表米は来米の誤記か)。上記の様に孝徳帝の裔とする説の三通りがある。現在主流を占めているのは彦坐王説であるが、この王の実在を否定する向きが多い。

 当時、各地方に割拠していた豪族を、天皇の系譜と結合する為に彦坐王という名が設定され、それによって彼等を王権の支配下に置こうとした、という見方である。

 また逆に、豪族達の方から保身の為に天皇系譜との繋がりを求めた例も多々あったに違いない。

 采女(うねめ)という名で娘を天皇家に入れ、その外戚となって大氏族へと発展していった例も多く見られる。

 

【 会 話 】

 

K「ウネメって何なの」

H「一種の人質かな」

K「………」

H「五世紀・六世紀・七世紀と、天皇家の勢力が確立されてくるにつれて采女の定義っていうのか性格も変って来るんだけど、七世紀、例の孝徳天皇なんかは各地の豪族に対して”お前達の家族の中から、一番の美人を采女として差し出せ”なんていう法律まで作っている」

K「随分沢山な数になるだろうな」

H「当時はそうやって集めた女を、宮中の女官として使ったんだろうな」

K「孝徳天皇っていうと、日下部との関係はどうなるの」

H「日下部系図に書かれている様な直接の関係は見当らないけど、そういう系図を造った何らかの事情があったのかも知れない」

K「というと」

H「すでに開化天皇につながる彦坐王系譜が造られていた。

 にも関わらず、改めて新しい系譜を造る必要が生じた」

K「よく解らないけど」

H「実は僕自身はっきりした答えを掴んでないんだ。

 一応の答えは出てるんたけど一寸複雑だからいつか機会を見て説明する」

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