5 丹 後 へ

 

【 手 紙 】

 一夜明けると小雨模様、しかし今日は一路天橋立に向かってただ走るだけ、お天気はあまり苦になりません。暗い空も北陸の風物の一つとか。

 地図で見ると近い様ですが、福井から宮津の天橋立までは、かなり時間が掛かるそうです。

 沿道の風景は海から山ヘ、そしてトンネルを抜けると又海と絶え間なく変わり、峠を越える度にお天気も微妙に変化いたします。

 途中、買物や食事などをのんびり楽しみ、宮津に着きましたのは午後の三時ごろでした。

 こちらの郷土史の先生にお会いになる予定の堀井さんは、天橋立で車をおりられました。

 私と常仁はそこから十分ばかり先の旅館に直行し、少し休憩した後、近くを見物する予定になっております。宿の近くには日下部氏にゆかりの深い丹後一の宮籠(この)神社があり、そこから天橋立は対岸に向かって真っすぐに続いているそうです。

 しかし小雨も降り止まず、昨日から動き続けの事でもあり(平常の私の生活から見ると、考えも及ばぬ活躍でした)大事をとって休息する事にいたしました。

 

【 モノローグ 】

 小牧進三氏とお会いするまでのいきさつは、前述した通りである。

 約束の場所は、はからづも数年前『古代史ファン』編集長(菊地清光氏)と共に丹後を歩いた時、一泊したホテルのグリルだった。注文したコーヒーも届かぬ内に小牧氏がおみえになる。

 初対面だがお互いにすぐそれと判ったのは、いずれも歴史に取りつかれた者同士がかもしだす、独特の雰囲気を持ち合わせているからかも知れない。

 小牧氏は「この方が丹後の日下部に詳しいから…」と、氏の友人、木村吉之助氏を御同伴、紹介して下さった。

 私から前もって「丹後における日下部の足跡と丹後半島の鉱物資源」についての御教示をお願いしてあったので、氏は万全の準備を整え待っておられた様子、初対面の後進に対するご配慮を改めて感謝しておきたい。

 自己紹介もなかば省略、両氏は御用意下さった膨大な資料をテーブルに拡げ、地図をかこんで本題にはいる。

 

【 会 話 】 ※ 小=小牧 木=木村 H=堀井

小「堀井さん、丹後に日下部の足跡は浦島伝説位しか残ってないんですよ」

H「やっぱりありませんか」

小「それと網野町ですね。網野神社には日下部の祖神が祀られていて、宮司さんは日下部系です」

木「この系図がその資料です。

 網野日下部氏は御覧の様に彦坐(ひこいます)王をその祖としています。

 宮司の日下部家は江戸時代森家から養子を迎え、以後森姓を名乗って現在まで続いています」

小「それとご存じの様に与謝郡筒川、宇良(うら)神社の浦島伝説ですね。

 この神社は今は若宮司がとり仕切っています。明日そこに寄られたら、私の紹介だといって色々話を聞いて下さい」

木「日下部姓の人は、丹後にはかなり住んでいる様です。

 例えば竹野郡の丹後町岩木などに多いですね」

小「伝説として残っているのは市辺オシハ王の子、ヲケ・オケ皇子の逃亡伝承位です」(ヲケは後の顕宗天皇、オケは仁賢天皇)

H「日下部連(むらじ)使主(おみ)が二人の皇子を守って丹後に落ち延びた……」

小「そう。そのことから丹後が日下部氏の本貫だったと見る説が多い様ですね。

 まだ日暮までには間が有りますから、その伝承地を案内しておきましよう」(補注・1)

 

【 モノローグ 】

 小雨の中、車を走らせながら小牧氏の話は続く。

 「伝説とは言っても、正史は丹波小子(タニワのワラワ)と二人の皇子をよぶ事によって丹波(丹後)との関わりを明記しています。

 そこには何か、無視出来ない背景があったのでしょう」

 車は峠を越えて大宮町五十河(いかご)に入る。

 地形は北に延びる袋谷で、そこには小野小町の伝説も残っていた。

 「この五十河に二人の皇子がかくまわれたと言うのですが、それとは別に「鉄」の伝承が多いですね」

 これも私の聞きたかった話である。

 氏は村落の小祠をまわりながら、そこに祀られている神々に天目一箇(あまのまひとつ)神を始めとする産鉄関係神の多い事、小野小町伝説が残るのも、小野氏と鉄の関わりを考えれば不思議では無いこと等々、話される事はすべて、私達外部の人間がいくら歩いてみても、一人ではみつけがたい話ばかりだった。

 私は以前から気になっていた事を氏に尋ねてみた。

 丹後は浦島伝説と共に羽衣伝説発生の地でもあり、羽衣伝説はこの地方の神体山ともいえる磯砂(いさなご)山がその舞台となっている。この山の南には「虫本」という変わった地名があり、「虫」地名を私は、日下部と鉱山のからみで捉えているのである。

 西には昔「大呂千軒」とよばれた大呂の集落がありXX千軒という地名はかつて鉱山町として栄えた地に残されている例が多い。

 その北、峯山町鱒留の藤社(ふじこそ〉神社は一説に比沼麻奈為(まない)神社とも言われ、境内には産鉄神天目一箇神を祀る摂社があった。

 磯砂山を鉱山に見立てる条件はそろっているのである。

 氏の答えは明快だった。

 磯砂山はまさに砂鉄の山であり、京都の大学の調査報告によると、山頂の風化花崗岩を分析した結果、十五%の砂鉄が確認されたと言うのである。

 これは私にとって最も嬉しい答えであった。

 この磯砂山を起点とする羽衣伝説は、伊勢神宮の元宮であるという籠神社と、微妙につながるのだ。

 籠神社の奥宮に、豊受大神〈伊勢神宮外宮の神様)を祀る真名井神社があり、この真名井神社から上述の麻奈為(まない)神社へ、そして羽衣の天女が遊んだという磯砂山へと一本の線で結ばれるのである。

 この天女の名は「トヨウカの女神」と言った。

 

【 会 話 】 承 前

H「何度か丹後を歩いていつも感じるのですが、このあたりには道教の痕跡が多いですね」

小「そうですね。浦島伝説自体がそうだし、徐福伝説だとか、冠島が常世島と言われていたこと……」

H「浦島伝説の本家争いがありますね。筒川と網野の二ヶ所に…、

 道教を軸として考えると、網野は日下部の本貫、筒川は浦島伝説の本貫と分ける事が出来そうに思うのですが」

小「というと」

H「網野を拠点とした日下部氏にとってみれば、筒川の風景は、まさに東方の仙境だったでしようね。

 彼らはそこを一族の聖域とし、祖霊を祀り、氏族伝承(浦島伝説)の舞台とした」

小「筒川周辺に遺蹟の少ない事はそれで説明出来そうですね。

 道教の定義、祭祀形態、日下部と道教の関係などつめなければならない問題は沢山ありますが。ところで堀井さん、真名井神社には行かれましたか」

H「籠神社には何度か行きましたが、あそこはまだなんです」

小「じゃあまだ時間がありそうですから御案内しておきましよう。明日御同行の方々をおつれになるといいですよ。

 大分荒廃していましたので、最近私達が修復しました。」

 

【 モノローグ 】

 真名井神社は籠神社のすぐ裏手にあり、宿からも近いとのこと、車内はひとしきり道教の話題でにぎわった。

 道教と修験道、鉱山と妙見信仰・字徳神社・別所という地名、鉱山と日下部と道教の関係等々。

 真名井神社の参道が近付いた頃、丁度平安時代の道教、安倍晴明と陰陽道が話題となっていた。能勢妙見の星辰信仰から安倍晴明の護符、五芒星(☆)へと話が進んでいたのである。

 五芒星、そしてより呪力が強いといわれる六芒星、六芒星はピラミッド・パワー、三角の複合である事など。

 小牧氏は無言で私を境内へと案内する。私はその入り口に建てられた石碑を見て思わず絶句した。何と、碑の中央に、たった今話題になっでいた六芒星がいとも鮮やかに刻みこまれているではないか。

 「何ですかこれは」

 私の問いに小牧氏は微笑みながら答えられる。

 道教と関係がある、とも考えられますが…、伊勢神宮にも同じ模様が見られるそうですし…、古いものは朽ちていましたので、新しく造ったんですが」

 すでに日も暮れかかっていた。

 伺っておきたい事は山程残っている。無理にお願いして宿まで付き合っていただき、夕食をとりながら続きを、という事になった。それに、お二人を川口氏に引き合わせておく必要が生じたのである。

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