マタイ27章で復活した人々について

 

<ご質問>
『しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と言った。』(マタイによる福音書27:50-54)の「イエスと共に復活した聖徒たち」の意味するところが分かりません。例えば、誰がどのような姿で復活し、どこへ行ったのかなど。
他の福音書では触れられていませんし、この個所と類似するのはエゼキエル書37:12-13の御言葉、『それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。「わたしはお前たちを墓をひらく。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」』だと思います。
それとも、(絶対に違うはずですが)これはマタイ福音記者がイエスのメシア性を強調するために旧約聖書の預言の成就という形で加筆した創作話なのでしょうか?

<お答え>
私たちは、キリストとともに復活しました。それは、キリストにあずかる霊的復活です。それゆえ、私たちは、すでによみがえった者であるといわれています。
しかし、人間は、霊と肉体から成り立っているので、霊的復活では十分でありません。肉体の復活が必要です。
キリストが十字架につけられて死なれたことによって、新しい生命への道が開けました。
キリストが死なれたと同時に、墓の入り口が開いたのはこのことを象徴しています。
キリストは弱さのゆえに肉体の死を経験しましたが、しかし、キリストの死は、逆に死の縄目につながれていた人々を黄泉から解放したのです。
カルヴァンは次のように述べています。

「…キリストの人間性のうちに、その肉の卑属な弱さが現われたまさにちょうどその時に、彼の死の偉大な神的力が地獄にまで達した…。それこそ、彼が墓に閉じ込められた時に、他の墓が彼によって開かれた理由である。」(Commentary on Matthew, Mark, Luke - Volume 3, Calvin's Commentaries,Complete,From the Calvin Translation Society edition.)

墓が開いて死人の幾人かが復活したことは、このキリストの死にこめられた解放の力を示す例証です。

本来なら、キリストを信じる全員が同じように復活しなければならないのですが、まだ時が完成していない時代においては、その数例が示されるだけでよいのです。あくまでも完成の時は、未来にあります。

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15・52)

この中間の時代においては、我々の生命は、神のうちに隠されています。

「…あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3・3-4)

私たちは、ある意味において、他の人々、ノンクリスチャンと同じような運命をたどります。この肉体は滅びます。それゆえ、ノンクリスチャンは、「キリストを信じて何があるのか?我々と同じではないか。同じように死んでしまうではないか。」と言うかもしれません。

しかし、それは、彼らが信仰の目を持っていないからです。信仰によって私たちは、クリスチャンが霊的に復活しており、あの数人の復活者と同じように、教会全体が復活するキリストの再臨の際に、その隠れた生命が顕現することになると知っています。

神は、私たちにキリストとともによみがえる希望を与えるためにこの数例の復活について記されたのです。

「…クリスチャンが希望を抱きやすいようにと、本来ならば全員に与えられるはずの復活を、数人に味わわせることをよしとされた。」(同上)

それでは、復活した人々は、その後どうなったのでしょうか。カルヴァンの次の説明で満足すべきと考えます。

「…これらの聖徒たちはその後どうなったのだろうか。ひとたびキリストによって新しい生命に与った後に、再びちりに帰ると考えるのは愚かに思えるからだ。しかし、この疑問に答えることは容易ではないので、知る必要のないことについてあまり労力を割くべきはない。彼らが長いこと人々と会話した可能性は低い。というのも、キリストの力が、彼らのうちに、鏡や類似物におけるように、はっきりと現われることが目的である以上、彼らが短い間だけ現われたとするのが妥当だからである。神は彼らにおいて、当時生きていた人々のうちには天的な生命が存在することを確かに示そうとされた。それゆえ、この務めが終わった後に、彼らが再び墓に戻り眠ってしまったと言っても妄言にはなるまい。しかし、もっと可能性として高いのは、彼らに与えられた生命が、後で取り去られることはなかったということである。というのも、もしそれが有限な生命であるとしたら、完全な復活の証拠にはならなかっただろうからである。」(同上)

 

 

02/04/03

 

 

 ホーム

 



ツイート